『若い男の肖像』               田中章滋


ウェイデン
                    

「嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか?」
「憎まば殺したい、それが人間ってものじゃないのかね」 ―「ヴェニスの商人」―シェークスピア  

 城砦を仰ぐムーズ河畔は、深閑として雲一つなく晴れ渡っていた。碧空を野雁が長閑に群れ飛ぶ。遙か高空から電光石火、鷹が急降下して、群れの先頭の一羽を鎌の様に襲い、縺れ合って旋回しながら地に落ちた。
 落ちたと見えたが、それはしっかと獲物を仕留め、「ピィーリ、ピリピリピリィ」との呼び声に応えて鷹匠の腕に戻っている。それは白隼だった。小高い丘に、雕像のように佇立する鷹匠は明らかに高貴な装束で、鄙には希な悠然たる出で立ち。その男の威厳は白隼を別 しても近寄り難かった。男は元騎士、ダビット・アウク。フィリップ善良候お抱えの鷹匠である。
                     ※
 ダビット・アウクは、ブルゴーニュ宮廷内の女官共にも増して眉目秀麗、長身白皙、されど優型とは程遠く、勇猛果 敢な騎士だった。あの魔女ピュセル(ジャンヌ・ダルク)を包囲したコンピエーニュの戦場で踵を射抜かれねば、フィリップ善良候の寵を恣にしていたろう。軈て、誉れ中の誉れたる、金羊毛騎士団の印綬を帯びる栄に浴したに相違ない。が、今は一介の鷹匠に身を窶している。
 アミアンで代々鷹匠を生業にしていたアウク家は、百年戦争以来、乱れに乱れた世情に便乗して、父祖の代からブルゴーニュ候に仕官していた。ダビットは候の供回りに取り立てられていたのだった。
 狩りをよくし、武芸をも好んだフィリップ善良候に従い、共に野を駆けたダビッドは、色気にも出世にも全く関心がない。野心と色恋沙汰は宮廷の玉 というが、戦で勲を立てたものの、傷痍騎士となり、元の鷹匠となるを願い出たには他に理由があった。
  アウク家累代の鷹の飼育歴でも極めて希な、白隼が捕れた為である。
  「天に鷹あり、地に人あり、友として交わらん、誰をかこの業を嗣がん」これがアウク家の家訓であった。元より鳥獣を友として育った身の上、生涯を鷹に捧ぐを厭う筈もない。
 一四三一年五月三十日、時恰もジャンヌ・ダルクの処刑がルーアンで行われようとしていた。未だハインリヒ・クレーマー及びヤーコプ・シュプレンガーの『魔女の鉄槌』は著されて居らず、これがアラスで猖獗を極める魔女狩りの嚆矢となる。方や妖術や占いは宮廷の女房達を魅了し、影の無い女、即ち魔女の助言や交霊術に耳傾けたのであった。ブルゴーニュ宮廷もその例に漏れず、恋の魔術の秘鑰を求める貴婦人方に取り入らんと、怪しげな輩が出入りしたのである。
 ここにブルゴーニュ宮廷、シャルル王太子宮廷双方に出入りした、カトリーヌ・ド・ラ・ロッシェルが居た。
 夜毎「白衣の聖母」が枕元に立つと称し、ジャンヌ・ダルクと張り合った女預言者である。彼女は密命を帯び、ジャンヌ・ダルクの評判を貶めるために、敵方シャルル王太子の宮廷に潜り込んでいた。己の秘蹟を証明せんと、ジャンヌと同衾までした彼女こそ、魔女であり、ブルゴーニュ公国宰相ニコラ・ロランがリシャール修道士を介して送り込んだ間諜であった。
 過ぐる一年前の初冬、フィリップ善良候とポルトガル王ファン一世息女イザベル・ド・ポルチュガルの盛大なる婚儀が執り行われた。その余興の馬上槍試合で、並み居る偉丈夫を薙ぎ倒すダビッドの勇姿には、貴婦人方は言うに及ばず、巷の女房小娘達さえ溜息を漏らした。其の上の出会いがカトリーヌ狂恋の因縁ともなった。否、正確には出会った訳ではない。単にカトリーヌが一方的に見初めたのだった。しかも、彼女には夫も子もあったのである。がしかし、爾来、魂魄となってダビッドに付き纏うたのである。
 魔女の妖術とは、元来、本草類を調合する民間医療に過ぎない。男からその性器を奪い取る法や、呪殺、天候の支配などは迷信に違いなかった。しかし、麻薬を用いた人心操作や媚薬、堕胎、鳥獣を手懐ける技など、現実に効験灼かなものもあったのである。
 殊に媚薬は閨房の必需品であった。又、毒薬についても古来暗殺や政治的謀略の必要から実際の学だったのである。ウルリッヒ・モリトールの『冷酷な女予言者について』は、魔女の呪術をよく伝えている。魔女が呪いをかけた榛の矢を弓に番え、男の足を射る図版である。毒矢と解毒剤とで相手を意のままに操ろうという妖術だ。それ等の魔術の原料を得るには、万国の貿易を取り仕切る薬種商との慫慂が必要だった。
  そして、錬金術は画家の工房にも親しく、この時、ロベール・カンパンの高弟である画家ロジェ・ド・ラ・パステュール、又の名をロヒール・ファン・デル・ウェイデンが、メディチ家代理人にしてベネツィア商人たるジョバンニ・アルノルフィニの商館に出入りしていた。銀行家メディチ家の前身が薬種商であったのは、その紋章に明らかである。ロジェ・ド・ラ・パステュールが、トゥルネーの画家組合に名を連ねるまでには、まだお礼奉公に一年の年期を残している。齢三十。師のカンパンにも、ブルゴーニュ家宮廷画家のヤン・ファン・アイクにも嘱目されているとは言え、未だこうして組合の使い走りで画材の調達などしている。アルノルフィニ商館、ここでカトリーヌとパステュールが出会う。この頃、パステュールは親方となる野心に汲々としていた。年甲斐もなく独立の機会を逸していたのである。
  如何なる天の配剤か、魔女の魔法修行と、現世に来世を顕現せしめる画家の技が同じ大鍋の中で煮られようとは? この奇縁はダビッド、次いでブルゴーニュ候書記官ニコラ・ロランへと繋がるのである。
 ブリュージュのアルノルフィニの商館で手に入った品々は以下の通り。乳香、没薬、麝香、苦蓬、サング・ディ・ドラゴ、砒石、密蝋、精油、琥珀、貴石、白亜、獣毛、山猫の内蔵、マンドラゴラ、生薬等々。
 カトリーヌは、記録上はジャンヌ同様農夫の女房となっているが、身分卑しい出ではなかった。常に粉黛を絶やさず、不壊の矜持持てブルゴーニュ宮廷に出入りしていたのだ。魔女、狂女の噂は兎も角、ボルジア家譜代の医師の縁者がその正体である。そこにダビデの星が刻印されるにしても。
 琥珀融解の秘訣、これがパステュールとカトリーヌを結びつけた錬金術並びに魔術の原点であった。限りなく純粋な琥珀溶液を得ること。油彩 技法にも妖術の為のインセンス(香料)獲得にも共通した目標だったのである。パストゥールにあっては、油彩 画のニスの秘密、当時ファン・アイク兄弟のみが用いたとされる究極の秘密を解き明かすこと。カトリーヌにあっては、古来太陽を意味した琥珀を精製し、神の飲料アンブロジア、即ち不死の霊液を得ること。
 そして過去の実験では、何時までも乾くことのない、極めて悪質な琥珀溶解液が得られただけだった。化石樹脂である琥珀は、それ自体を熱しただけでは焦げてしまう。液状にした後、常温乾燥によって元の硬質な皮膜が得られねば油彩 の描画ニスに適さない。油中で高温で熱することで溶かす事が出来るものの、元の性質を失ってしまうのだった。
  その蘊奥の処方は【クレオパトラのクリュシュオポス】に依った。

クレオパトラ                    

《一は凡てであり、それにより凡てであり、それにおいて凡てである。もし、凡てを包含しないのなら。。。。。:》
《蛇は一であり、二つの象徴をもつ毒がある》
《一は凡てである》

 或る日、双頭の蛇ともいうべき蒸留機を用いて、唯一成功したかに思える琥珀溶解液が得られた。しかし、亜麻仁油の沸点ぎりぎりで蒸留を行った為、窯ごと爆ぜ飛んでしまったのだった。当時はまだ、油が気化する前に目的の留分を得る、減圧蒸留装置の発想は無かった。僅かに残った雫を集めてみたものの、それは涙壷を盈たすのがやっと。それきり実験は頓挫したのである。
 パステュールがダビッドの肖像を描くに至った経緯を述べて置こう。師の未完成の仕事を受けてであった。フィリップ善良候の推輓により、誉れ高き騎士への褒美となるべき肖像であったものが、取り消され、未完のまま師が筆を置かざるを得なくなったのだ。先に語ったように、ダビッドが鷹匠に格下げとなったからである。賄の支払われない仕事は中断、これが工房の常である。しかし、それらが手本として弟子に譲られることは希ではなかった。ましてロベール・カンパン工房の実質的な差配の多くは、老いたカンパンからロジェ・ド・ラ・パステュールの手に移っていたのである。
 美丈夫を持って鳴るダヴィッドを、モデルとして写す野心がパステュールを突き動かしたのであろうか。畢竟するに、ダビッドとの交誼を通 してフィリップ善良候に取り入らんとしたのやも知れぬ。ともあれ、ダビッドはパステュールの求めに応じ、欣然とポーズを続けることを肯った。僅かに得られた琥珀樹脂を用いて描いてみよう、パステュールはそう決めた。
                     ※
  ここはムーズ河を臨む崖の上。昨晩の驟雨によってムーズ河は水嵩を増し、川幅を広げている。ダビットは、朝まだきからここにやって来て、白隼の訓練に勤しんでいた。やや傾斜があり足場が悪いものの、獲物を見繕うにこの懸崖は絶好の見晴しだった。
 隼は時速二百キロで飛び、己の体を浴びせることで獲物を仕留める。猛禽類の中では、極めて小型だが、人の腕をもぎ取ることなど容易い。油断をすれば怪我を負う。最前からダビッドは繰り返し白隼を放っては、辺りの禽獣を襲撃させていた。近傍の田畑では大麦の収穫が始まっている。長閑な景色に反して、隼と鷹匠の遣り取りは、火花散る緊迫したものだった。
 昼も近い、白隼も疲れを見せている。切りよく終わりにせねば、躑躅を覚えたものの、最後の狩りを白隼に命じ、ダビッドは革手袋の腕を跳ね上げた。白隼は弾丸のように高みを目ざし飛翔した。
 《アタル、バテル、ノーテ、イホラム、アセイ、クレイウンギト、ガベリン、セメネイ、メンノケ、バル、ラベネンテン、ネロ、メクラプ、ヘラテロイ、バルキン、ティムジミエル、プレガス、ペネメ、フルオラ、ヘアン、ハ、アヴィラ、アイラ、セイェ、ペレミエス、セネイ、レヴェソ、フェイ、バルカル、アクト、トゥラル、ブカルト、カラティム、慈悲により、死すべき者はいくであろう。人目に触れずにいくことできるというこの業を成し遂げるために。》
 咳ぶくような不可解な読経と、竪琴の調べが鏗鏘として辺りの静寂を打ち破った。
 するとみるみる内に空がかき曇り、黒い太陽が出現した。否、それは目の錯覚だ。夥しい数の鴉の群れが、大麦畑から一斉に飛び立ち、ダビッドの視界を遮ったのだった。群雲のように鴉の大群が、空の一角に蝟集し、さながら日食の如く見えたのだ。その中心にダビッドの白隼が巻き込まれていた。狂ったように乱れ飛ぶ鴉に翻弄され、行き場を失った白隼はさながら空の捕囚であった。
 猛禽の白隼とは言え、多勢に無勢、執拗な空の壁に抗し切れず、逃げ場は最早地上しかない。白隼はたまりかね失速した。ダビッド目掛け、いっさんに落下していく。その後を鴉の大群が竜巻のように追った。白隼を基点として槍のようにダビッドを襲う。一丸となった夥しい数の翼の打擲を承け、ダビッドはもんどり打ってムーズの河面 に墜落していった。  半時後、対岸の大麦畑に忽然と艶容隠微な笑みを浮かべたカトリーヌが現れた。傍らにしとどに濡れたダビッドの死骸が横たわっている。先程の姿を隠す呪いとは異なる読経を唱え、今正にアンブロジア、あの琥珀溶液を含んでダビッドに口移ししようとしている。それは正に再生魔術なのであった。
                    ※
 三ヶ月後、ブルゴーニュ側からまんまとシャルル七世に寝返り、ジャンヌの後を継いで王軍に予言を与えていたカトリーヌが、ジャンヌ同様コンピエーニュでブルゴーニュ派に捕らえられていた。軈て、ブルターニュのピエロンヌという魔女と共にパリで火炙りにされる。
 その頃おい、琥珀精油を用いたロジェ・ド・ラ・パステュールの手になるダビッド・アウクの肖像画が、乾燥を待って完成となる筈だった。しかし、その絵は水鏡のように何時までも全く乾かず、台無しとなってしまった。白隼と共にダビッドの姿も杳として知れず、ロジェ・ド・ラ・パステュールは、その後二度とその絵を顧みることはなかった。
 幾時代かが過ぎ、作者もモデルも不詳の作品が何処からともなく現れては、全てにダビッド・アウクと思しい面 影が認められたが、それ等は単に『若い男の肖像』と題されている。
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