マニエール・ノワール

               田中章滋
われは黒けれどもなお美し
ケダルの天幕のごとく、
またソロモンの帷帳に似たり

           旧約聖書

かの女は美はしくしかもそれ以上であり、驚嘆の念をそそる。かの女の裡には黒が漲り溢れ、そのあたへる感興は悉く、夜に似て深い。

           シャルル・ボードレール

 それは、詩篇『大鴉』のようにフランス窓から始まる。だが、そこにあるのは空虚でも軍神パラスの胸像でもなく、ブロンズ製の四枚の羽をX字状に拡げた有翼人の立像で、予め鴉か獅子と合体した姿をしている。これと同形のものが、アッシリアのアッシュールバニパル王治世下の出土品に多く見受けられるが、顔の部分の鋳造が悪かったのか、それとも磨滅してしまったかして、それが如何なる精霊を象ったものか確かめよう術もない。
 月が照っている。おりしも、夏時間の遅い宵闇を遊び人たちと共に楽しもうとするかのように、辺りに隅なく冴え冴えとした光を配っている。
 イヴリーヌ・レジェは待っている。彼女の永久の伴侶となるべく定められた者の出現を。そしてその懈逅の時がごく間近に迫っていることを狂おしいまでに予感している。
 その者は、夜毎彼女の夢に執拗に立ち現れては、鞭を振るう者の呵責なき冷厳さで、彼女の嫋やかな肌に、焼印のように赤燿したナイフを押し当てていくのであった。し かしイヴリーヌには、アラブ式の作法によって屠殺を受ける羊のように、あるいはアステカのインディオ達がかつて行っていたチャツクモールの犠牲のように、その試練の執達使の姿を垣間見ることすら許されないのだった。ただ、彼女の体躯を捩じ伏せ、羽交い絞めにする、猩猩のように畏るべき力と、気の遠くなるような痛みの記憶だけが、いずれ訪れるに違いない運命の強大さを噛みしめるべく残されるのだった。
 今、彼女は贄となる宿命を告げられて戦くタウリス島のイフィゲーニエのように胸を高鳴らせ、昼間ヴィクトル・ユゴー通りの高級下着店『青天使』で買ってきた巫女の衣___黒い絹製の化粧着を纏ったところだ。脇の下から胸の膨らみへと連なる 箇所に、幾分か攣れを感じはするが、試着して点検してみないままに、それを買った ことを悔いはしなかった。

        ***

 『青天使』のショーウィンドーは、古楽器を扱う骨董屋によくあるような木製の譜面台に、髭文字の書体で麗々しく『月光の恋人』とタイトルを掲げ、渦巻く色とりどりの下着類を素材に、ピエトロ・ズンボのグロッタもかくやといった劇的光景を演出していた。イギリス風の白いエナメルで塗られたいかにも瀟灑な張り出し窓を覗くと、群青と菫色の山景から覗く夕陽の残光と月影が相照らす印象的なレマン湖畔を描いた書割りを背に、コルセットやブラジャー、ショーツ、ビュスチェ、テディ、ストッキング、ガードル、スリップ、ベビードール、ペニョワール、ネグリジェ、その他ばらばらにされて、最早もとの形状すら推し量り難い程の、肌着や備品で構成された園生が誂えられていた。その舞台中央に、オルフェ(今時どこから探し出してきたものか、ピエール・イマン工房の臘製のクラッシックなマネキン人形で疑した)を据え、その 竪琴の音色に聞き惚れる麒麟、犀、鹿、狼、栗鼠、孔雀、ナイチンゲール等の剥製を配し、モンテベルディのオペラ『オルフェ』が今正に演じられつつあるかのような印象を見る者に与えていた。
 パリの下着屋のいずれもが、まるで馬具商や靴直し屋が、あら皮だの道具類だのを素っ 気なくただ並べたてているのと大差なく、大判のブラジャーとナイロンパンティーの組み合わせ(神殿騎士団ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの角のある兜とそれは大概相似形である)や石膏で固めたみたいなコルセットで示すそれらが、巨女や、弓を射る為に片乳房を削ぎ落としてしまったアマゾネス達の、威嚇的な陳列窓であったのに較べ、『青天使』のこの意表を突いた見事なディスプレイは、この界隈でも一際評判を集めていた。中でも、取り分けイヴリーヌが気にいっていたのは、天蚕糸で器用に捻られ、オルフェの光背のように羽根を広げた、黒鳥の飛翔を象ったキャミソールだった。それは、『イエローブック』の表紙絵のように極めてシンプルな、それでいて絡み付くようなか黒い描線の優美さを醸し出し、予てより彼女を魅了していたの だ。イヴリーヌの信念、《黒は色彩の女王》たることをそれは雄弁に物語っていた。
 今日の午後、この夏のアルバイト先であつた人類学博物館へと出掛けたついでに『青天使』へと寄ってみると、夏物の見切り品に混じって思いがけぬ値段で手にいれることができたのだった。部屋に帰り着くとすぐに、ディスコで汗まみれになるまで踊った身体であることも忘れ、包み紙をあけるのももどかしい手つきで真っさらのキャミソールを身に纏ったのだった。
 漸く満たされた思いに打ち浸りながら、改めて着心地を確かめる。胸の谷間のところが薔薇窓のように大胆にカットされ、しかも繊細なボビンレースで縁取られたそのキャミソールは、彼女の形良い乳房をえんどう豆を包む鞘のように柔らかく偏平させ、細っそりした胴から腹部へと隆起する肉の畝溝を際立たせていた。あまりにもぴっちりと上体に密着するので、いかにも年頃の娘らしい思い付きからか、身体の余分な線が目立ちはすまいかと少し気になった。たった一部屋きりのアパルトマンにしては、些か荘重すぎる印象を与えるスカンジナビア風の衣裳戸棚、そこに誂えられた等身大の鏡(それは彼女の第二の自我ともいえる)の前で、水鳥が羽づくろいをするように手で自らの身体を抱き抱え、様々なポーズをつけて独り言ちる。
「いいわ。」一通り着心地を確かめ終えると、ごく最近、蚤の市で見付けてきたばかりで、シルクサテン張りの背の青い縞柄の部分が擦り切れたままのナポレオン三世調のカウチソファーに、まるでレカミエ夫人の肖像画を意識してでもいるかのように、上体をすこし起こした姿勢で身を預けた。軽く目を閉じると、深夜であるにも係わらず、何処からかタムタムの連打が聞えてくる。それはエレベーターのない旧いアパルトマンの最上階に位置するイヴリーヌの部屋まで、エジソン型蓄音機の懐かしい音色のように階穽を這い登ってきて、耳に心地好く谺する。確か階下の部屋にモンテネグロ人の辻芸人が越してきたと管理人から聞いたような気がする、そして「何かに祈ってるんだわ」そう彼女は呟き、衣装箪笥の上の船の舳先のように飾り付けたネグロ彫刻の立像に、自然と目をやる。その脇の壁には、暗黒大陸アフリカの様々の地域の祭儀に用いられた仮面や用具、人形、彫刻が所狭しと並べられ、骨董屋の店先を思わせる。

        ***

 イヴリーヌは白人種で生粋のパリジェンヌであったが、自分を黒白混血、否黒ん坊 であれば善かったと思う程“黒”という色彩に憑かれていた。彼女は肌を焼くため、スウェーデン人のように季節に係わりなく人工紫外線を浴びに行くことを日課の一つにしていた。彼女の通うヴォエシー通りの美容院はパリスコープの広告欄に コクトーの詩“Batterie”の一節を掲げ

 光る歯のあの黒ん坊は、
 外側が黒色で内側が薔薇色だ
 僕は外側が薔薇色で内側が黒色だ
 逆にしておくれ
 僕の体臭を、皮膚の色をかえてくれ
 君がヒヤシンスを花に変えた方法で

『貴嬢を心底薔薇色にする美容紫外線』と謳い文句にしていたが、イヴリーヌは有閑マダムや、夏を先取りしにやって来るマヌカン達を尻目に、密かに思うのだった《あたしは体の芯から黒くなりたいわイヴリーヌ・レジェがこれ程までに“黒”に惹かれ、異様なまでの執着を示すようになったのは何時の頃からであったろう………。シュザンヌ・バルヴィエの影響だろうか?

        ***

 イヴリーヌとシュザンヌ・バルヴィエが知り合ったのは人類学博物館の見張り番のアルバイト先でであった。同じ十九歳ながら大学に進まず、十六からありとあらゆる 仕事を転々としてきたシュザンヌは、自分より遥かに大人に思えた。出会った時も積極的に声を掛けて来たのは彼女の方だった。
 始めトロカデロ博物館一階の『レスピギのヴィーナス』のコーナーで見張り番を務 めていたイヴリーヌは、気に入っていたこのアルバイトで、自分の好きなニグロ彫刻 のコーナーに就けないことを唯一不満に思っていた。だから、必要以上にトワレットに立ったり、休憩時間を引き伸ばしたりしては見学客に混じってアフリカ美術のコーナーで油を売っていたのだ。そのコーナーに居たシュザンヌが度々見掛ける顔のイヴリーヌにこう尋ねたのが最初の出会いだった。「こんな不細工な木偶人形やら骨だのが余程お好きなようね。学者の卵さんかしら?あたしには退屈で退屈でしかたないわ。交代時間にはまだ時間があるけど、ねぇビュッフェでお話しない?」

 シュザンヌは初対面であれ何であれ誰に対しても馴々しい口をきいた。一方子供の頃から内気で人見知りがちなイヴリーヌは人を逸らさない質のシュザンヌにただただ気圧されるばかりだった。
 ビュッフェは、高校の課外授業の団体が引けたところで閑散としていた。当たり憚らぬ シュザンヌの声ばかりがホールで暫く反響し続けた。
 「あたし最近意気地無しの愛人と別れたばかりなの。どうしようもないコキュで変態男だったけどお金だけは散々貢いでくれたわ。でももうんざり!とっても嫉妬深い奴だったから……暫くは働かなくても済んだけど。なるべく体を動かさなくって済む楽な仕事でもと思ってこのバイトを選んだの。ここに来て一週間目だけど、そろそろ自分の体が木喰虫に食われた穴みたいな気分だわ。ねぇ、今日の仕事が終わったらディスコにでも繰り出さない?」意気投合と言うにはほど遠かったが、シュザンヌのこの誘いを断る理由が見つからなかった。
 それに、踊りは好きだったけれど言い寄ってくる男共を断るのが煩わしいばかりに ディスコへは行かなくなっていたので、彼女とだったら気兼ねなくダンスに夢中になれそうに思えた。

 ディスコティック『ラ・スカラ』はリヴォリ通りとパレ=ロワイヤルの間にあり、 金曜、土曜、それから祭日の前夜に限り女性は入場無料とのことだった、仮にその日が金曜日でなかったとしても、近場のカフェかディスコの入り口付近でたむろしている男達と、即席の友達になりさえすればお金なんかいらない、シュザンヌはそう請け合った。
 シュザンヌのダンスは熱狂的だった。舞姫サロメがもし現代に生まれていたならこうで在ったろうと思えるほどに気紛れで、しかもありとあらゆるステップを知りながら危うく見えるほどに、奔放に振る舞って見せるのだった。その姿はミラーボールの反射光や、激しい音楽そのものと化して弾み、メキシコ産の飛び豆が弾けるように他の踊りの群れに飛び込んだり、辺り構わず男達の腰にぶつかっていくのだった。
 ディスコで散々汗を流してから店を出ると、挑発され、すっかりその気になった男達がぞろぞろと後を尾いてきたが、シュザンヌはそんなことには全くお構いなしだ。 イヴリーヌに向い「こいつら皆んなしみったれのガキ供よ!」そう耳打ちするなり「いい? 一気に走るわよ!」そういったなり煩く付き纏う男達を振り払いながら、一目散にその場を逃げ出すのだった。五十米程も走ると、まったく当てが外れて吠え面をかいている男達を尻目に、二人は腹を抱えて笑いあった。
 心地好い夜風にふかれながら、そぞろ歩いていた二人は何時の間にかレアール地区へとやってきていた。マヌカンが気取って歩く真似をしながらシュザンヌが言った。
 「あたしこの辺で育ったの。ようこそ、わがねぐらへ。」「やっぱり!『ラ・スカラ』から逃げ出した時から、そんな気がしてたわ」とイヴリーヌ「いろんな道をよく知ってるなって。」 「でも、田舎から家出して来てからだからね、学校へ行く代わりに社会勉強よ。生活の為なら何でもしたわ!最初に覚えたのは万引き____でも直ぐにいい仲間が見つかって足を洗ったわ____そいでもってその仲間達と会社を作ったの。映画のエキストラ派遣会社。すぐに潰れちゃったけど。それからモノプリのレジ係、肉屋の売り子、水商売、ヌードモデル、画廊の店番………。そうだわ!いまのあたしたちみたいに、座っているだけでお金になるいい仕事があるわ」シュザンヌはそう言ってかつてパリの胃袋と言われていたムフタール街の、暗い路地だの袋小路だのに連れ回すのだった。
 そこに、かつては温室としてどこかの建物に付属していたと見える、グラン・パレ宮を頗る小型にしたような劇場が建っていた。否、劇場とは名ばかりで、けばけばしい蛍光色で塗り立てられた看板は、シニヤックの点描画を間抜けにしたみたいな裸体の人物たちで埋め尽され、おまけに店の名前のレタリングまで点描で描いているので、辛うじて〈劇場〉の文字だけが判読できるのであった。ともあれ、その名なしの〈劇場〉は如何わしさにおいて、それが何であるかを暗黙に語っていた。

「覗き部屋っていうの。アムステルダム名物の飾り窓の女に似たようなものよ。でもなにも心配することないわ」そうシュザンヌは耳もとで囁いて、抵抗を感じてむずかるイヴリーヌの背中を軽く押して中に入っていった。
 鏡張りの部屋の中で、乙女たちは、寛ぎ、しどけない姿で時を過ごしている。ある 時は、人形と戯れる幼女であったり、独りパントマイムを舞う空気の妖精シルフのようであったり、もの思いに耽る女学生であったりして、そこに演技を認めるべくもない。自然に、且つ自由に振る舞っているのだ。仮りにそれが演技であったにしても、それは始まりも終りもなく、途切れることのない演技なのであって、演ずる意識の有無に係わるものではない。
 科学記号のベンゼン環の構造に近いこの覗き部屋は、細胞膜のような仕切りによって、その細胞を四方から取り囲み攻撃するウイ ルス的な視線の侵入を可能にしている。即ちマジックミラーの力によって、少女達側 からは無限に増殖する鏡像空間となり、外側の男達(こちらも檻のような小部屋なのではあるが)からは草原のゼブラに涎を垂らしなが身を隠す叢ともなる、一方通行の理想的な覗き窓となっている。これは、肉食獣の威嚇する眼と対峙する誘惑の砦を構成すると同時に、男達の、透明な、限りなく天使的な願望を満たすのである。
 幾つかある覗き部屋同志は蜂の巣状の連続、あるいは胡桃や海胆の殻の空洞や骨格に似た形状をしている。時計回りに、それは鏡張りの六角形の部屋を中心にして、各頂点から渦巻きながら、腔腸類やイカの嘴のような三角形の小部屋が六つ形成されている。この六つの小部屋の片側には、幾つもの覗き用の小窓が穿たれており、勿論特殊なガラスによって向こうからは見えない仕掛けだ。今一方の壁面、即ち壁面全体が蝶番で展開するドアとなっている箇所は、常に解放状態で、マルセル・デュシャンが住んだラリー街十一番地のドアのように両義的なドアとなっている。この部屋の隅窓に男達は、簗場の捕獲用の罠にかかった鱒のように鼻面を押しつけ、 眼には見えない入り口、否、出口を探し続けるのだ。

 イヴリーヌとシュザンヌが通されたのはそうした一つであった(無論、こうした職業の従事者は相手に対する無関心が鉄則なのだが、案の定、切符もぎの中年女はまったくの無表情だった)。
 「ここでだったら誰にも咎められずに《葉っぱ》が吸えるわ」そう言いながらシュザンヌは、自分のピルケースから取り出した吸い差しのマリファナに火を付けイヴリーヌにも回すのだった。未知の興奮と戦慄がイヴリーヌの火照った体を何処か見知らぬ領域へと一気に押し流すのだった。

 イヴリーヌの部屋の時計(入り口のドアの真上に掛けられたそれは、古いスイス製の時計仕掛けのオルゴールで、ウインナワルツに合わせて鹿追いの絡繰りが飛び出した)が午後一時を告げた。一息ついたイヴリーヌは、一端憩いかけたカウチソファーから立上がり、飲み物を取りに部屋の隅の調理場へと向かった。久々にディスコで踊ったせいばかりでなく、妙に体が火照る。気温もちょっと高いようだ。覚えたてのトロピカルカクテルを手にカウチソファーへと戻り、もとの姿勢でカクテルに口をつけた途端、彼女の脳裏にマルチニック島で過ごしたこの夏のバカンスの思い出が鮮やかに蘇る。

        ***
 
 太陽の方角が掴めぬ程、強烈な光が世界に隈なく行き渡っていた。エジプト人の切れ長の目のような三角波をたてる渚。緑玉の海と空のトルコ・ブルーのグラデーションが曖昧な辺りを、鴎か、或いは海猫の群れがリモナードの炭酸泡のように爆ぜ飛んでいる。
《きっとあの下には魚、それも鮪並みの大きな魚が居るに違いない》とイヴリーヌは思う。何時か水族館で見た鮫の激しい愛欲の姿を連想し、何か淫らな空想に耽りそうになって目を転じる。丁度、傍らの少年達が揚げた凧の一つが、糸が切れたものか遥か沖の方に吹き流されていくのを目で追っていくと、先程の群れ鳥の方に届きそうに思えて、口の中でもっと右とかもっと左とか呟く。
 「あら、この私有浜辺からカフェのある場所までは大分あるわよ。コテージに戻るの?」とサングラスを額に擡げ、眩しさに片目をつぶりながらシュザンヌが答える。
 「退屈なんだもの。行ってくるわ」と言い残してイヴリーヌは磯伝いに歩き出した。

 《どうしてこんな島に来てしまったのかしら。シュザンヌには済まないけれど、少しも楽しくなんかないわ。あたしが求めているのはこんなバカンスじゃない》彼女のなかにこの旅行とシュザンヌに対するわだかまりが膨らみ始めていたのだ。  
 マルチニック島をバカンス地に選んだのはシュザンヌのアイデアだった。地中海クラブメンバーの知人から会員券を借りて、高級リゾート地で優雅に一夏を過ごそうという計画であった。しかし、いざ来てみるとまだ時期が早い為か何処か閑散として居り、おまけに見掛ける観光客は皆余生を楽しむ老夫婦ばかりときていた。
 だが、イヴリーヌの不満はそんなことではない。島の黒人達ともっと触れ合いたいと思っているのに、何から何までリードしたがるシュザンヌが片時も自由にしてくれないのだ。彼女は回想の最中であるにも拘らず、その時の憤りが再燃して思わず心の中でこう呟いた《あたしにだって自分のバカンスがあるわ……シュザンヌ、あなたは 何も解ってないのよ!》
 イヴリーヌは大学の現代文学のレポートにエメ・セゼールを選んでいた。セゼールはマルチニックの世界に冠たる黒人詩人だった。イヴリーヌは『太陽、斬られた首』詩集、就中「沈黙の十字軍」の一節をアフリカの黒い神々からの荒々しい啓示のように思い為していた。

        ***

 そして今巨大な鳥たちは滅び
 動物たちの臓物は
 生贄のナイフの上で黒ずみ
 僧侶たちは辻々で結び合わされた芥の腐植
 土に天からの仕事を植えている
 今や
 黒とは黒ではない黒のこと
 またの名を黒い場所
 記憶された肉なる火
 おまえの獣の肉の中で
 一個の石ころが千変万化して
 おまえの体に暗い言葉の水が
 穿った大穴を塞ぐとき
 チンボラーソ火山は
 世界をなおも喰い荒らす

 そしてランボーの「悪い血」と対比しては自らが望んでいるものに確信を得るのだった。それは、己が死の肉体にして言葉なる白人種の〈ノンモ〉から、己が生成の子宮にして宇宙卵なる〈アンマ〉へと転身することを意味していた。
 イヴリーヌは火焔樹の並木に面したカフェテラスで、ペリエのグラスを前にパリに帰ることばかり考えた。セゼールの情熱的な詩だって、ここに来てみると何もかも小綺麗に過ぎて、何処かチグハグな感じがした。
 軽い失望に耽っていると、突然、彼女の目の前に座っていた白人の水夫が通りがかりの島の男と凄まじい殴り合いを始めた。どうやら昼間から酒の入っていた水夫が、男をからかったのが原因らしい。イブリーヌは難を避けるよりも、その余りに堂々たる二人の男の格闘ぶりにすっかり魅了されてしまっていた。水夫の横縞のランニングと、島の黒人の半裸のうねる筋肉が激しく縺れ合って、それはさながらディアボロの回転を思わせた。何時の間にか集まった見物人の人垣がその独楽を回すリングという訳だ。勝負は呆気なくついた。先にジャックナイフを抜いた水夫が男の逆手にとった一撃によって敢え無く倒れ伏したのである。島の男は警官が姿を現すより早くその場を逃走した。
 この一件は、それまでのイヴリーヌの迷いをすっかり忘れさせた。コテージに帰ってからもその興奮は覚めやらず、夕食に出たロブスターの鋏をナイフに見立てて、シュザンヌ相手に繰り返し繰り返し喧嘩の様子を説明し飽きぬのであった。
 だが島でのバカンスは、イヴリーヌの期待する野生の男との出会いも、税官吏ルソーが描くような蛇使女の内側から輝きだす黒い肌をも実現することなく、シュザンヌとの喧嘩別れのみを置き土産として、早々と切り上げられたのであった。シュザンヌの誘惑がその原因であった。

        ***

 シュザンヌは、イヴリーヌの叔母のエレーヌによく似ていた。子供の頃、幾度となく見せ付けられた黒い下着姿--------エレーヌ叔母が正式に義理の母となるまで続けられた虚偽の生活を、責めるには余りにも叔母を愛し過ぎていたが、叔母が彼女から何重にも奪い続けてきたことと、シュザンヌ・バルヴィエの計略的な交際術には符合するものがある--------母を欠いた三人での寂しい夕食(少なくともイヴリーヌには)を終えると、エレーヌは昼間の小学校教師の仮面をかなぐり棄て、喪の色彩を逆手にとるかのように黒ずくめの下着に着替えたのだった。
 叔母が、母を失ったばかりの幼い姪と相部屋をしていた理由を、肉親の情以外に求めることはできまい-------だが、謹厳実直そのものの灰色のスカートと、踝までのソックスを横着に片足でずり下げながらする儀式めいた二度目の着替えは、成長期の娘にとって躾と同じほどの教育効果をもたらしたと言ったらそれは穿ち過ぎだろうか--------
 六区のバルザックの館の西側に隣接したイヴリーヌの生家は、切り売りされて今は見る影もない。だが当時はまだ三階までのフロア全体を所有し、空き部屋の数が生活空間を圧倒していた。今でも、時たまこの通りに貸し部屋の広告が出る度、一種の帰巣本能のようなものに駆られて不動産屋と掛け合い、辺りを見て回るイヴリーヌであったが、元の家の出物はまるでなかった。
 ノートルダム・ド・グラース教会を北側に控えたレイノアール通りと、トルコ大使館のあるベルトン通りに挟まれて、イヴリーヌの旧居とバルザックの館を含む数軒ほどの建物が、ハリウッド映画で見掛けるセットのように棟をくっつけあいながら、一列に並んで建っていたのであるが、それ等はさながらウジェーヌ・シューの『パリの秘密』にでも出てきそうな変わった構造を持っていた。それというのも、斜面に建てられたロッジのような塩梅に、それ等の館はレイノアール通り側からは一階、ベルトン通り側からは三階建の構造を有して居り、双方の通りに各々独立した玄関を設けていたからである。晩年のバルザックが編集者や借金取りから逃れたり、ハンスカ夫人のもとに逢引に出掛けたりするために、この二つの通りに跨がった玄関を使い別けていたことは、よく知られている。
イブリーヌとエレーヌの部屋はレイノアール通り側の平屋と見える東角にあり、バルザックの館のスフィンクスの石彫が据えられた小さな庭を共有していた。バビロンの空中庭園めいたこの庭から眺望するセーヌ川の景観からは、今ではひょろ長い葱みたいなモンパルナスタワーによって、一部損ねられているとは言え、旅の然々にみる田舎風景にも似た、ある種長閑な印象が得られるのであった。独り遊びが習慣だった幼いイブリーヌにとって、歳月によって磨滅し墓石のように黒ずんだ、この庭のベンチに凭れ、とりとめもない空想に耽ることがなにものにも代えがたい楽しみとなっていた。辺りを遮るものとてなく、良く陽の降り注ぐその庭で、日向ぼっこをしながら目をつぶると、瞼の中の視界に闘牛士が翻す真紅のムレータのように一面夕焼けの世界が現れる、そこにリュクサンブール公園の人形劇場で見たお道化者のポリシネールや、それを囃立てる子供たちの黄色い喚声を再現したり、かつて母がしてくれた『少年の魔法の角笛』だのの、ありったけのお話を思い描いては時を過ごすのだった。子供心にたっぷりと感傷に浸ることが成功したときなどは、溢れ出て睫にかかった涙粒に映じる虹の光彩と戯れることもできた。そうした遊びに夢中でいると、たまに暁のスクリーンの前を、何者かが過った時にできる黒い縞状の影が訪れることがあった。それは決まって庭先でうたた寝をしてしまった娘を目敏く見付け、起こさないようにと気をつけながらベッドへと運んでくれる父親の、山羊髭が頬に触れて少しチクチクする感触と、コロンの香りが綯い交ぜになったキスなのであった。
 アフリカ、オセアニア専門の古美術商だった父親は、ベルトン通りに店を構え、往時はヨーロッパ中の美術館に納品を行うまでに 繁盛したが、それも今はない。ともあれ、妻を失い、買付けの旅や忙しい店の切り盛りで娘の教育に手の届かない父親が、亡夫の妹のエレーヌを養育係りとして家に引き入れたからといって、世間は何ら疑わなかったであろう。まして、父親のエドモン・レジェ氏は、齢六十にさしかかろうとしていたのだから。
 「イヴリーヌや、淑女はあんまり外で日光には当たらんものだよ。」レジェ氏は良く口癖のようにこう言った。そして、食堂のマントルピースの上に飾ってある記念写真を見やりながら、こう念をおすのだった「母さんのように、なるべく肌を隠し、楚々としていなければいけない。さもないと、父さんや母さん達と一緒に写っているその黒ん坊みたいな、野蛮人になってしまうよ」。写真の中の母親は日傘をさし、白い麻のワンピースに肘までの手袋を嵌めた姿で微笑んでいた。恰幅のいい父親の、角笛みたいに大きなキャラバッシュパイプを握った手に腕を回し、海岸だか砂漠だかで、車輪を取られて傾いだ少し古い型の車を背に行儀よく二人並んで立っていたのであるが、その回りで幾人もの黒人の人足達が盛んに車輪の下の砂を掻い出している様子も写っていた。レジェ氏がジブチへの買付け旅行に、初めて新妻を同伴したときのスナップであった。その写真の端の方に一人だけ、襤褸とは言え何がしかの服を纏った人足たちとは異なり、局部だけを辛うじて隠し、限りなく全裸に近い黒人の青年が、輝かしい肌の色で矜りかに立っていた。イヴリーヌのまなざしは、父の小言の度に、武器を手にし、明らかに戦士の化粧をした、この男のもとに注がれるのであった。

       ***

 シュザンヌと一緒に撮ったバカンス地での記念写真は、現像せずに、まだ全部フィルムの中にある。パリに帰ってから、一度だけ、モントルイユの蚤の市に一緒に出掛けたが、却って二人の間の溝が深まっただけだった。どうしてもシュザンヌを憎めなかったが、生理的に同性愛を受け入れることは儘ならない。父親の形見の蛇腹の付いたローライフレックスカメラがレンズキャップもされずに、ライティングデスクの上で空しく宙を仰いでいる。《またシュザンヌのことばかり思ってる!》いつもの癖で、取り止めもない考えに取り憑かれそうになって、イヴリーヌは自分の思いつきを記憶から無理にひきはがす____《これじゃまるで冷め掛けのヴィヤベースじゃない!》。
 イヴリーヌは今では自分自身の習慣となっている叔母の仕種でより完璧な儀式を執り行なう。--------叔母は洗濯のよく行き届いた黒絹のストッキングを、優美に引き締まった脹脛(叔母は肥り肉だったが唯一ここだけは細っそりしていた)に添ってたくしあげ、一寸放心したような表情を浮かべながら靴下留めに繋ぎ、それ以外の下着は一切着けずに喪服のワンピースを被り、いそいそと階下のレジェ氏の寝室へと出掛けるのだった。イヴリーヌの母親が亡くなるずっと前から二人は関係を続けていたが、イヴリーヌは少女特有の直感力でそれを感づいていた。父親の寝室で何かの秘め事が行われているに違いない、がそれは自分にだけは禁じられた何かだ。そうした晩に、イヴリーヌは必ずといっていい程同じ夢を見た。
--------乳白色の河の流れに沿って泳いでいくと、突如、大きな肌色の島が現れる。何かに追われているような気がして喘ぎながら、大慌てでその島に這い上がると、案の定、後方の今泳いできたばかりの波間を、黒い流線形をしたものが、素晴らしい勢いで追いかけてくる。よく見ると、それは黒耀石のように輝く鱗を持った、脹脛にそっくりの魚だ。背びれとも角とも取れる位置に、銀色の擬宝珠のような冠を戴いている。そして、イヴリーヌのもとまで追い着くと、まだ河に浸っている彼女の足指に、盛んに喰らいつくのだ____この夢を見るたび、何故か泣きながら目覚めるのが常だった。そこに出てくる黒い魚に魘る恐怖からではなく、その先どうしてよいかさっぱり見当がつかず、身も世もない不安と索漠たる期待の念に、胸を押しひがれるからだった。爾来、この何かを待つ思いと、黒い意匠で身辺を飾る習慣が育まれていった。

        ***

 今、イヴリーヌは、彼女の部屋の壁面一杯を飾るネグロ彫刻に思いを凝らしている。 「おまえを愛している。おまえを愛している」とナジャがイースター島の小像を見て幻聴したように、イヴリーヌも父の店の夥しい数のネグロ彫刻の仮面から同様のメッセージを受けていた。否、それは単なる父の形見に対する愛着に過ぎなかったのかも知れないが、遺産分けの際に売り立てを主張したエレーヌ叔母の助言をいれず、手許に敢えて残した品々だった。そして、それを基に自分でも徐々にコレクションを増やしていた。
 彼女の部屋に所狭しと並べ立てられたネグロ彫刻の中でも、彼女の一番のお気に入りは、モントルイユの蚤の市で手に入れた男女両性を象った細長い顔の裸身像だ。それは衣裳戸棚(彼女の最も神聖な場所)を守っている。蝶の羽みたいに開け放つことができる衣裳戸棚の扉、その扉一杯に嵌め込まれた姿見は、カウチソファーで微睡みかけているイヴリーヌのしどけない下着姿を忠実に映しとっている。もしここにプロのカメラマンがいて、イヴリーヌの姿を余すところなく撮影したとしても、恐らくこの姿見以上に優れた構図とアングルを得ることは不可能であったろう。それをするには、衣裳戸棚を退けるか、一旦、窓の外に出て姿見そのものを焦点とせねばなるまい。
 姿見は彼女の抜けるように白い足裏を捕えている。そして、それとは対照的に焼かれた肌の流麗な四肢、キャミソールに包まれた、今にも弾けんばかりの血入腸詰を思わせる腹部、その上に揺らめく張りのいい乳房、一文字に結ばれた珊瑚色の唇、コケットリーな印象のする少し跳ね上がった鼻、くっきりと引かれた眉の下で輝く薄緑色の瞳、わらわら煙るブロンドの髪(これだけは好みに反して染めることはしなかった。子供の時分から、よくウエーブするしなやかなブロンドヘヤは彼女の自慢の種だったから)を恰もマンテーニャが得意とした遠近構図で俯瞰していた。背景には天蓋付きの寝台、パズズと思しき魔神の小像、そして、普通なら屋根裏部屋ともいうべき最上階の部屋としては例外的な、高い天井まで届く鎧戸の付いた窓がある。中庭に面した裏窓ではあるが、ここより高い位置に他の部屋は無く、迫った隣棟のマンサール屋根に挟まれた煙突の群れが、大理石のバルコニーのようにも見える。外は耿々と冴え渡る月の光が支配していた。

 彼女は夢見るように思い出す。月の顔を持った、衣裳箪笥上のネグロ彫刻を買った経緯を。それは、雌雄合体の両性具有を現わし、イヴリーヌが所蔵する他のネグロ彫刻の中でも、取り分け奇妙なシンボルを帯びていた。
  --------《あの露店の民芸品売りの黒ん坊ったら、素敵な目をしていたわ。シュザン ヌに言ったら、気色悪いってすげない返辞だったけれど、あの目はきっと、地平線を何処までも見通すとびきり純粋な種族の目に違いない。金環食みたいに燿く瞳、明らかに駝鳥の羽飾りや羚羊の角で戦化粧を凝らす戦士のまなざしを秘めているのよ。わたしが「変った形の立像ねっ」て値段を聞くなり、彼ったら急に何を思ったのか、葉巻みたいに太い指を影絵遊びのように複雑に組み合わせて、象牙色の歯を見せてニヤッと笑ったわ。意地悪なシュザンヌ、「どうせ安物よ!それに、こいつらマルセイユから歩きでてくてくパリまでやって来た食い詰め者のアフリカ人に決まってる。卑猥な仕種だわ」だなんて、その場から無理にわたしを引き離そうとしたけど、わたしはそうは思わなかった。きっと何かのお呪いをわたしに教えたかったのね、百フランはちょっと多すぎたかもしれないけれど、彼ったら別段嬉しそうな顔もしないで自分でお尻の下に敷いていた、皺だらけの新聞紙で無造作にその像をくるんだなり手渡したわ。何かを依頼するように上目でわたしを見詰め、力強く包みを押しつけて。何故かしら胸がドキドキした。シュザンヌ、あなたの言い種ったらおかしいわ「イヴリーヌ、あんたって、大学に行ってるくせして大バカよ!それに黒ん坊なんかに色目使って、あんたの趣味にはついていけないわ。お別れよ」って、民芸品に夢中だからって、たかがそんなことで嫉妬するなんて変よ!でもあんなに仲良しだったシュザンヌともそれっきり………》
 
 今までずっと、断続的にではあるが軽快に続いていたタムタムの練習音が、今度は重々しいボンゴの響きに変えられた。今夜のパリは珍しく蒸し暑い。イヴリーヌは次第に眠気を催してきたようだ。姿見の構図が大きく変る。顔に擡げて、伸びをした両腕の付け根から、薄っすらと湿り気を帯びた金褐色の脇毛が覘いている。シュザンヌと別れてからというもの、イヴリーヌは何となく、自分を誰かが物陰から窺っているような気がしていた。それはまるで、スパイか探偵のようにさり気なく、 ある時は大学の外国人学生の姿で、またある時は終電間近の駅の清掃員や破落戸の姿をして。
 --------今夜も、確かに彼女は或る者に後を尾行されていた。薄暗いスポットライトに照らされた、紛い物の大理石像の立ち並ぶ地下鉄ルーブル駅で。

 乗客の居ないホームで終電を待っていると、トンネルの闇の中から数人の線路点検夫が闇そのものを背負いだすかのように黒い大きなゴミ袋を背負いこみ、泥海を抜け出すような足取りで出てきた。内二人は、明らかにアラブ人と判る品の悪そうな男で、残る三人は黒人であった。黒人の中でも飛び抜けて背の高い男が、イヴリーヌ目掛けて鋭い一瞥を投げ掛けてくる。
 サバンナでよく見掛ける蟻塚の穴、或いは木の虚みたいに暗い、但し何者にも屈することのない、倨傲を宿した目だ。軽い近眼のイヴリーヌは、興味深いものを見る時のいつもの癖で、プラットホームの裾ぎりぎりの所で立ち止まり、繁々とその黒人達を観察し続けた。庇が無ければ囚人用と見間違えそうな帽子、空色の所々汚れた作業衣(これはお仕着せ)、そして槍のように先の尖った、ゴミをつついて取上げる為のステッキ、ルーブル駅の王家の谷の地下墳墓めかした造りと間接照明の中にあって、彼等の黒い皮膚は薄闇と溶け合って服だけが動いているようにさえ見える。《まるで墓堀り人か、ミイラ造りの助手みたいだわ》、イヴリーヌはそう思い、まったく無防備に様子を窺い続けた。
 一方、それまで黙々と線路内に落ちた煙草の吸い殻を拾い集めていたアラブ人の内の一人が、黒人達に見蕩れているイヴリーヌに気付き、汚い髭だらけの顔にニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら、イヴリーヌの立っているホームの真下までやって来、腿までの、短いスカートを覗き込むような姿勢で声を懸けた。
 「お嬢さん!いくら待っても電車は来ねぇよ!もう終電は行っちまった。…………ここに泊まるってんなら、お相手しねぇでもないが、こんな黒ん坊なんかに目をつけても駄目だぜ。こいつら皆んな、こないだ密入国してきたばかりの新参者で、フランス語さえろくに話せねぇ」鼻の詰まった声で酷い訛りだ。アラブ人の話を最後まで聞かずに、イヴリーヌは地下鉄の出口へと小走りに向う。彼女の後方から、単唾を吐く音に続いて低い耳障りな含み笑いが迫ってくる。出口へと通じる階段の前まで来た時、彼女は初めて後ろを振り向き、様子を窺った。すると先程の背の高い黒ん坊が、今まさにホームへと這い上がり、樹上のピューマのように四つん這いの姿勢で、彼女を追って来ようとするのが見える。イヴリーヌは背筋に電撃を受けたかのような戦慄を覚えた、と同時にあの子供の頃の悪夢にも似た、どっちつかずの恐怖とも期待ともつかぬ思いに身が竦んだ。四肢を引き裂かれんばかりの逡巡に呪縛され、階段の中途で蹲っていると、黒ん坊が追い縋ってきた。あっと言う間の速さにも係わらず、息ひ とつ弾ませていない。そして、イヴリーヌの前に立ちはだかるや、極めて唐突にあの露店の民芸品売りがして見せた恰好で掌を組み合わせ、意味ありげな笑みをうかべたなり、くるりと踵を返して去っていった。それ以上何事もなかったが、異常な興奮から回復するには、タクシーに乗り自分のアパルトマンの戸口に着くまでかかった。

 好々爺然とした初老のタクシー運転手は、飴玉を頬張った口で、釣銭を返しながら言った「近頃、物盗り以外の目的で若い娘の部屋に忍び込む悪漢が増えてるそうだ。戸締まりには気をつけるんだね」。

        ***


 自分の部屋に辿り着いて、イヴリーヌはやっと昼間した買い物のことを思い出す程の余裕が得られた。部屋に入ってまず衣裳箪笥へと飛んでいき、汗を含んだカシュクールを脱ぎ捨ててから、半裸の儘の姿でゆっくりと明日大学へ着てい行く服を選んだ。それから買ったばかりのキャミソールを試着してみたのだった。

 時計が午前一時半の時を打つ。イヴリーヌはまだ完全な眠りには達していない。とぎれとぎれの思念が沸上っては消えていく。《ドアにしっかり鍵をかけなくっちゃだめよ…………それにしても》とイヴリーヌは思う《あの黒ん坊のして見せたポーズにはどんな意味があるのかしら…………何処かで見たような気もする…………》。薄れる意識の間を縫うように、様々なイメージが浮かぶ。
 衣裳箪笥を守るエルマフロディットの裸身像が練りチョコレートのように溶解している。丁度、股間の陽物が滴り落ち、双の乳房の部位が蝋涙のようにずり下がってきているのが、イヴリーヌの視野に入る。
 折りから、フランス窓一杯に差し込んできた月光が、窓辺の魔神パズズ(今や、その正体はそれ以外のなにものでもありえない)を照らし出し、揺らめく炎の影となって部屋全体に引き伸ばされた。揆を一にするかのように、それまで低く呻きをあげていたボンゴの連打が、極に達したかの如く乱れ打ちを始めた。既に、完全に形を失ったかに見えていたエルマフロディットは、影の使者パズズの祐けを受けて、再び黒ゴムの様に造型を始めた。イヴリーヌはその異様さにつられて身を起こし、衣裳戸棚に近寄ったが、それはいつの間にか背の高い屈強な男の姿に変貌している。イヴリーヌは驚嘆するより先に、自らその怪物の腕に飛び込んでいた。そして、憑かれたような口調でその怪物に語りかけるのだった。「ずっと、ずっと待っていたわ! あなたが 何者かは、ちゃんとわかっているの。口にしてはならないあなたの名前も。名前はいつでも対象を超えてしまうわ、わたしが住む世界では、言葉はそれ自体天使なの。自分だけの力では生きられないから、わたしたちの体、否、意思さえも借り続けるのよ」。怪物は何も答えなかった。それにそいつは実に目まぐるしく変転するイリュージョンそのものの権化といってもよく、さながら濃度の濃い液体に封じ込められた空気の泡のように、徐々に形を変えていくのに忙しいといった様子だった。怪物の股間(それはイヴリーヌの胸よりも高い位置にある)から熱く波打つ陽物のような隆起が生じ はじめ、鯉のように口髭を持った魚へと造型を始めた。付け根から楔のように密集した陰毛が、全身へと伸び広がっていく。怪物は六面獣身でG・B・デッラ・ポルタやCh・ル・ブランの観相学図みたいに、獅子、羚羊、禿鷲、少女、男、老婆、と各々位置を変え、流れる川面に映じた鏡像のように揺らめきながら、行きつ戻りつしている。次第にそれらが渾然一体となっていく。
 イヴリーヌはもう何も喋らなかった。ただその怪物の巨大な猛禽類の足できつく戒められるだけで陶酔を覚えるのであった。それに、怪物の口ではなく、どうやらボンゴの響きにこそ語が含まれているらしいことが解ってきたから。それはこう語ってい た。

 「オマエ…ハ、ウケザラ、デハ…ナイ、オマエ…ノ…ナカニ、オマエ…ヲ、ツクッテ…ハ…イケナイ。オマエ…ノ…ナカカラ、デテモ…イケナイ。」

 「じゃあ、愛は、わたしの中で充満する愛をどう現せばいいの。わたしはあなたを激しい期待で呼び寄せ、いまこそ、その使命を露にしようとしているのに! 」

 イヴリーヌは口ではなく、体の総ての器官を使って語った。怪物はイヴリーヌのこの抵抗の語りを許さず、戒めをもって応えた。

 「デテハ…イケナイ。シンゾウ…ノ…ヨウニ、タダ…、ジュンカン…サセヨ。」 怪物は一層明瞭に語り始めるのだった。「輝カシイ栄光ノ御世ニ、我ラハ地ニ降ッタ。地ニハ灰ガ満チ、我ラノ他ニ何者モ無カッタ。ソコデ我ラハ、我ラノ内、一人ヲ地ノ上ヲ覆ウモノト見做シ、ソノ体ヲコトゴトク分チ、地ニ振リ撒イタノダ。ソレ故、星ノ兆デ測ラレル時ノ周期デ、我ラハソノ我ラノ眷族ト、交ラネバナラヌ。」

 語る内、怪物は何時の間にか、勇壮なネグロの戦士の姿になっていた。頭上に羚羊の角を思わせる冠を戴いている。が、それも一瞬の姿に過ぎない。またゆるゆると変身し始める。ある瞬間には、それはエドモン・レジェ氏の顔となり、白い山羊髭を蓄えたかと思えば、エレーヌ叔母のグラマラスな体となり、醜い形容不能な姿へと変じつつあった。そして最後に、鯉の陽物の陰毛の叢のただなかに、誰あろうシュザンヌの恨めしげな顔が浮かび上った。鯉の口の部分から、イヴリーヌ目掛けて、タールのように真っ黒な体液が夥しく撒き散らされ、イヴリーヌの身体を隅なくネグロに染め上げていく。それからシュザンヌの顔の怪物は、傍らのライティングデスク上のリンホフ製カメラを取り上げ、イヴリーヌの乳房が捩じくれんほどに押しつけた。

        ***

 強い痛みと共にイヴリーヌは目覚めた。カウチソファーから転げ落ちたらしく、床の上に身を投げ出している。痛みの原因を成していたのは、何かの弾みで落ちて外れたカメラのレンズであった。そればかりではない、どうした訳か壁を飾っていた筈のネグロ彫刻が皆、乱暴に打ち倒れされている。

 ふと、異様な気配に気ずき、部屋の入り口の方に首を巡らすと、ドアが完全に開け放たれており、先程メトロで遭遇した長身の黒人青年が、今にも内部に侵入して来ようとしている。目が、イヴリーヌの生家のマントルピースの上にあった、父母の記念写真の中の黒人戦士のように、不思議な光を帯びて輝いている。ナイフを手に持ち、 狩りに赴くときの出で立ちだ。
 イヴリーヌはこれも夢の如く思われ、自ら進んでネグロの腕に抱かれにいった。
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