「雲の劇場」“Théâtre de nuages” 田中章滋

 『ズボンを穿いた雲』で一躍名を馳せた詩人マヤコフスキーは、セーヌ河に身投げして死んだ。なんで死のうなどと思ったか、私はマヤコフスキーの詩集を一冊しか読んでいないので、大方失恋でもしたのだろうと位しか、想像出来ない。今の私の歳から思えば、絶望だの身投げだのは、世渡り下手や、若造のする事だと思うだけ。私は失恋なんかしない。私がフッた女は星の数程居るが、フラれたことなど一度もない。
 
 私は自殺も決してしない。だから健康そのものの私が死ぬとしたら、人に殺されるか、事故位のもんだろう。用心深い私は昔から、逃げるのが得意だった。脱出王フーディ二も顔負けさ。戦場や収容所だって脱走してのけた程だ。そして、秘密が多い私は隠れ家には鉄壁の防犯を求めてきた。今だって番人が常駐するこの監視塔つきの『鷹ノ巣マンション』に住んでいる。ここは嘗ての地下ミサイル発射台を基礎にしているので、有事にはマンションごと地下に格納される。政府要人だの、そのお妾さんばかりが住んでいる摩天楼だ。私は頗る人気者なので、普段、暇を持て余しているそのお妾さん達が、片時も私を抛って置かない。

 それにしても、この高層の『鷹ノ巣マンション』のペントハウスは最高の見晴らしで、風のと塔と呼びたい位、東西南北よく風が吹く。お陰で様々な色光に彩られた雲が雄渾に現れる。東風はいつも泣き出しそうな雲。西風は千切れ雲ばかり、私のように浮気者だ。南風は嵐を伴う帆船を引き連れて、天高くキャンバスを巻き上げる私の大好きな、白い白い雲。北風は老人だ。ただただ灰色な蛇のように狡猾な雲だが、今の私のように足が萎えて居るので、大目に見よう。

 雲の画家と呼ばれた私にとって、ここは最高の現場、兼、アトリエ、兼、安息所という事になる。部屋は空と同化する程のスカイブルーのタイルが張り詰められてている。雲ひとつない快晴でも、私の頭の中では、いつも無数の雲が浮かんでいる。

 ようし、次は1000号の大作を描いてやる!嗚呼、製作意欲が漲る!

 「所長!零号室のあの爺さんが、また、バスタブ一杯に歯磨き粉を捻り出して下水管を詰まらせました!おまけに本人自身もベトベトで、部屋中ひどい有様です。爺さん、毎日問題を起こすんで、看護女子職員が音を上げてます!どういたしましょう?」

 「仕方あるまい。本人が画家だと言い張るんだ。安全を考慮して、家族が絵具の代わりにチューブ歯磨きを山ほど差し入れてるんだし。以後与えるチューブは12本だけに。さもないと暴れて手がつけられんからな。患者に自傷行為がないのが幸いだ。狭い風呂場に閉じ込められる。しかし、家族は大金持ち。我が病院の大事な後援者だ。下水管は高圧放水で対処してみなさい。猿の檻じゃないが、爺さんも一緒に浴室ごと洗浄したまえ。」

 「くそう、面倒ばかり・・・。爺ぃめ!歯磨き粉を喉に詰まらせて、早くくたばってくれねぇかな…。」


    コンスタブル
       ジョン・コンスタブル《雲の習作》1822年、油彩/厚紙に貼った紙、47.6×57.5cm、テート美術館蔵
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