「愛しきヘタクソ、でもグレート」    2015-02-11 田中章滋 識

アノニム

Anonymous Valencian Artist
The Crucifixion
ca. 1450-1460
Oil on panel.
44.8 x 34 cm
Museo Thyssen-Bornemisza, Madrid

 幾ら死人に口なしだからとて、大昔の人だからとて、人様の絵を平然と<ヘタクソ>呼ばわりするのは、それが偏愛の対象足りうるからだ。先ずそう言い訳をしておいて、この、泥棒だの、反逆者だの、神様の息子だのの受難を描いた一場の絵のことを語ろう。

 何年か前、マドリードのティッセン・ボルネミッサ美術館 Museo Thyssen-Bornemiszaで見た絵なのだが、並みいる錚々たる巨匠画に混じって、一緒にしていいのかい!という位に堂々と掲げられたこの絵を発見し、何度も何度も「ううむ、下手糞」、「なんだこのゴリゴリした感じ」、果ては「なんだろ?この穢い山賊ども!」とまで文句を呟きつつ、どうしても気になって気になって、仕方ない。他の部屋のいい絵を見ては胸が空くのに、態々この絵に立ち戻っては、反吐が出る。凡そ私の審美眼から大きく出外れた絵で、飲み込もうとする度、咽せて気持ち悪くなる絵、と言ったら言い過ぎか。

 それでも唾棄せず、気になる理由をその絵の鑑賞に15分程かけて、その時、具に検分してみた。先ず私の関心を惹き付けて止まぬのが、黴びた蜜柑のように罅割れた、歪(いびつ)な大きな太陽である。

 歪んで奇妙なのは、西に傾いた太陽だけでない。荒寥とした山やエルサレムの街(どう見ても墓場そのもの)も、人も、犬も、何もかも。見れば見るほど形が取れて居るようで、どうしようもなく陳(ひね)こびている。デッサンが狂いまくって、最早収拾がつかぬ程に美観を損ねているのだ。なのに部分部分を見て行くと、ちゃんと写実的に描けていて、指の表現など勢いのある筆触で、感心もさせられる。だが、たどたどしく感じるのは、絵描きならばそっちには絶対行っちゃいけないよ!と思えるバランスの狂い。そこに完璧な程嵌っているのだ。ある意味凄いよ、百発百中の狂ったバランス!

 そして一見気にならないようで、最も甚だしいのは右端に高く磔された罪人で、通常の遠近感覚で見ても、とんでもない巨人なのである。中央から三対あるT字型の十字架の配置を見ても、やや高い位置から見下ろす一点透視図法なので、右端の十字架が、少しも手前に存在してはいないと判ぜられる。であるからして、この人物が手を大きく広げてぶら下がっていても、こんなに大きくなる筈がない。彼だけ特に大きいのは異様である。十字架上の人物達は下の群衆よりやや大きく、さらに左から右へと更に大きくなっていく。図像学では、神聖な人物を大きく扱うという類例も多いが、何だってナザレのイエスより神を詰(なじ)った盗人の方がデカいのか。訳が分からない。それに、不謹慎かも知れないが、イエスの下着の皺である。まるで股間に指でも差し入れているような、珍妙な皺ではないか。

 そして、ここが最大の問題点、最も魅力的でなければならない筈の個々の人物の顔。それが、度し難く全員不細工なのである。土手南瓜のような頭のヨハネ、鱈子唇のマグダラのマリア、イエスに仇を為す人々だから仕方ないと思いつつ、鼠の化身のような顔や、木の切り株みたいな浅黒い顔、どいつもこいつもグランギニョールにしか見えない。なかでもイエスが最悪だ。水中で死んだ訳でもないのに土左衛門(どざえもん)なのである。

 どうした訳だ、責任者出てこい!と思って解説プレートを初めて見ると、作者不詳。アントネッロ・ダ・メーシーナの影響化にあったバレンシアの画家とある。確かにフランドル絵画の技法を思わせる、当時最先端の油彩画技法に見えるし、後ろ姿の人々は変なポーズもあるが、まあまあ。衣紋の柄や、草花などは、類別出来る程丹念にちゃんと描けている。地面もきっちり地層が分かる程だ。

 こうして、この作者が苦手なのは、徹底的に顔や裸体や人物のプロポーションなのだと結論づけられる。高度な技術を身につけながら、下手上手(へたうま)でもなく、上手下手(うまへた)で、空いた口が塞がらぬ。こんなエグい絵、私には金輪際描けない!よって、最早グレートとしか言いようがない!!

 嗚呼、見れば見る程気持ち悪いバランス。それがどうしようもなく、完成し切っているのだ。

追記:以下は私の妄想的な蛇足である。恐らくこの絵の作者は、なんら歪んだ思想の持ち主でもなければ、当時の宗教画の一般的な約束事以外、何の特殊な作為も持たぬ、極めて真面目な職人タイプの絵描きだろう。この絵のみで、その性格までを読み解く事は出来ない。若し過剰に憶説を語って行くなら、そこに私自身がダブルイメージとなって纏い付くことになる。

 この絵の来歴を巡り、美術館付きの研究者や専門家もあって然るべきだし、そもそも極東の一絵描きに過ぎない私は、バレンシア地方の当時の画派に就いて知る由もない。

 「秘密」は常にそれを欲する者の前にのみ現れる。そこで、私は種明かしをせねばならない。私が何故ここまでこの絵に拘るのか?それはこの絵の全体が薄目で見ると、写真家のジョエル=ピーター・ウィトキンJoel-Peter Witkinのセルフポートレイトのような髭の男の顔、しかも片目を瞑って舌を出し 、「あかんべー」する図に見えるという事なのである。そうすると、恐るべきアンチクリストの絵に成る。

 こう言ったからとて、私は別段サタニズムの信奉者では決してない。
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