「珈琲店 醉月」考


「珈琲店 酔月」
     
          (萩原朔太郎『氷島』より)

坂を登らんとして渇きに耐へず
蹌踉として醉月の扉(どあ)を開けば
狼籍たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を圍み
我れの醉態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなく錢(ぜに)を數へて盜み去れり

Le café du Mois d’ivresse par Sakutaro Hagiwara(“L'Ile de glace”)

Alors que je monte la pente, je ne peux plus résister à la soif
Titubant, j’ouvre la porte du Mois d’ivresse
De ce café où règne le désordre
Résonne la musique d’un disque rayé
À l’ombre des lumières charbonneuses
J'aligne des bouteilles d’alcool bon marché.
Ah ! Il y avait longtemps que je n’avais eu cette mélancolie !
Je suis vieux et sans village natal
Séparé de ma femme et de mes enfants, je suis solitaire
Que je les connais bien, les regrets de l’errance.
Un groupe de femmes encerclent ma table
Me voyant saoul, elles me prennent en pitié mais
Me maudissant tout à coup, elles dérobent mon portefeuille
Ayant compté la monnaie, elles ont filé sans rien laisser.

       
 この詩の<カフェーの女給>が何を意味するか、世代や性別、酒癖の如何、属する階層、国によっても随分まちまちだろう。殊に飲酒、まして色香を売る事がタブーであるイスラム社会なら、丸ごと悪所や悪事が折り重なって、石打ちの刑すら免れまい。そんなことを言ったら切りがないので、少なくとも原詩とこれを訳した言語圏(ここでは日仏)の文化の位相のみ取り上げる。
「珈琲店 醉月」は今で言えばスナックかバーか、クラブなのだろうが、他にパブ、昼サロ、キャバクラ、手を代え品を代えというより、名のみ潤色して安易な色気と酒をひさぐ風俗営業の一種であって、この詩の内容から鑑みて、今で言えば、俗に<ボッタクリバー>的な性格の店であろう。この<ボッタクリバー>を、この業に就かぬ婦女子、或いは酒を家以外では嗜まぬ一般人に理解してもらうのは困難だろう。猥所には違いないが、酔漢を色香で客引きをし、店に連れ込むや、僅かな酒で法外な請求を行い、それを支払わぬ者から暴力的に金品を巻き上げる不法営業飲食店、即ち『注文の多い料理店』を地でいく、追い剥ぎ飲食店である。大概既に酔い潰れ寸前の酔客や地方出身者、飲酒経験の浅い若者が被害者。今も繁華街の闇に紛れて、恐いお兄さんが裏から出て来る店は、時代を問わず後を絶たない。

 よって「珈琲店 醉月」は、概ね日本に固有の接待文化である「芸者」か、朝鮮半島の妓生(キーセン)、中国の妓女伝統の風俗化と解せるが、そんな店がフランスにある筈もなく、そもそも女性が酌をする店自体ないのだから、この辺の機微を訳すことなど適うまい。まして、フランスのキャフェ(文字通り喫茶店)に居るのはギャルソン(男性給仕)であり、朝からでさえ客の注文次第、ビールや酒を当然の如く出すので、文化の位相を知らねば誤解ばかりが広がっていく、という次第。

 私の意見は、ただそれだけの勿体ぶった解題である。因に私もその道に全く暗いのであるが、経験が無くも、何やら酒ほがい自体が目的ではなく、生活に破綻した男が、人恋しいばかりに入った女気のある店で、散々な目に遭ってしまう悲哀のみは理解できるのである。
 敢えてこの詩を西欧的に受け止めるならオルフェウス神話しかないのであるが、酒神ディオニュソスの怒りを買って狂乱女マイナス達に八つ裂きにされる主人公、即ち朔太郎が太陽信仰の人とはとても思えぬところが、珠に瑕。そして彼を弔い癒してくれるレスボスの女も居ないのである。


                オルフェ
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