<過ぎ去って見ればみな美しい季節であった>

  「エロス」について想うところあり、少しく書いていきたい。因みにエロスを「黒い神」だと言った André Pieyre de Mandiargues(アンドレ・ピエイル・ド・マンディアルグ)は、Dieu noir(黒い神)をプシケーと暗闇でのみ交わる闇の王子であることを念頭に置いて語っていたと思う(即ち夜這い)。

 これは私のみの受け止め方に過ぎぬが、殊更エロスに「暗黒=悪」や「死」の衝動を付け加えようとはしないのが、古代オリエント的な祭儀をロマネスクに好んだマンディアルグらしいと私は想像するのだ。古代オリエント的とは、陽物崇拝と大地母神信仰のアマルガム(混淆)としてのそれである。

 「性」を闘牛に喩えるマンディアルグに「死」の魅惑が皆無だと言えば、これは明らかに誤読だろう。しかしそれを「エロス=死」という短絡で扱うとしたら、何とも露骨で無粋極まりない。性にまつわる想像力の美的戦慄の領域を、味わうどころでは無くなってしまう、そう感じるのだ。一方、リアルな性行為は極めて滑稽なものでもある。またフロイト解釈を措いて、神統記では鉄の心臓、青銅の心のタナトス(「死」)の同胞は「エロスとタナトス」ではなく、「ヒュプノス(夢)とタナトス(死)」なのである。
 
 少し前のグループ展中日(なかび)の事。7人展(幻獣展2008)に偶々居合わせた画家三人が、各々の来客の接待などするうち何時の間にか酒宴となってしまった。一名は客と共に余所に流れたが、コレクターの小泉氏、画家の小山哲生氏と私と男ばかり居残ってしまい、間が持たぬ。では近場で一献傾けましょうかということになり、銀座の路地に入り込み、酒宴の続きと相成った。

 そこは小山氏の馴染みの店とて、何故か他の酔客が一人も居ない。即ち貸し切り状態。そうなると男共がするのは決まって大真面目な議論だったりするのが常。私は先輩諸兄より十二三ばかり年少だが、団塊世代とそこに続く谷間の世代は、時代も反時代も引っ括めてナンセンス(懐かしい語)なディベートが大好きなのである。

 議題は誰言うともなく「エロス」。「通俗エロス、ポルノグラフィ、高級なエロスと弁別したところで一体何の間断があろう、全部一緒じゃないか」というのが私の意見で、「昨今SMだとかフェティッシュだとか、単なる個人の趣味の領域。そしておぞましいのは性の探求者を標榜する趣味人の会。大概そういうのは商売絡みで、芸術行為と何の関わりもない悪い意味でのお遊戯だ」と断じると、小山氏一流の美学で、「孤独な魂が籠っていないものはみなアートじゃない!」と宣う。

 議論は本来対立軸が出て侃々諤々となるが、彼と幾ら語っても、表現の角度は異なれほとんど対立点がない。スキャンダルに塗れた氏の往年のパフォーマンスよりも、その隠れたる耽美、卓抜な絵画技量を、深く敬愛している私は、何とか刺激して本音の一つも引出してやろうと盛んに食い下がった。因みにビタミンアートで知られる小山氏のパフォーマンスの過激さは、 『泡沫桀人列伝―知られざる超前衛』(秋山 祐徳太子著2002年二玄社刊)に詳しい。就中、泡沫概念の先駆は「小ロマン派」(否、小々ロマン派か?)であると言添えて置く。

 しかし、小山氏の意見は真剣なのか、不真面目なのか、時にさっぱり訳が分からないことがあり、それでも全く淀みなく、理路整然と進展していくところが痛快で、まるで詩人か哲人を思わせる警句が次々飛び出して、人を魅するのだ。

 だが、御用心、御用心、この方何時の間にやらいい話が台無しに。「エロスは男だって、女だって等しく愛する者だ」と小山説。

 「具体的にはどういうことですか?」と私。この間、小山氏、女性器、男性器の名称連呼。「誰とでも交雑するんだよ、えへへ」。えっ?高尚な振りして結局エロエロですか?女の子が居たら絶対口説くんですね。ただモテたいだけなんですねと暴いていくと、「それが人間の本性だから...」。「あれ?エロスって一応神様じゃなかったっけ?小山さん!エロスは私だ、になっちゃってます!」。

 嗚呼、所詮、同じ穴の狢ですけども。


     エロス
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