『革鞣し処方』-ホルスト・ヤンセン展に
                                田中章滋

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 曾て青木画廊で日本初の「ホルスト・ヤンセン展」が催された際、種村季弘氏は案内状に『文明の革剥ぎ職人』なる逸文を寄せられた。画家にも拘らず、何故ヤンセンを「革剥ぎ職人」と呼んだか、これは少しく解説が必要である。文化は時間が経つとおさらいが必要になる。

先だって挿絵画家のレオ澤鬼氏と親しく語る機会があり、氏のペンによる点描細密画の起源に、エルンスト・フックスの影響があると聞かされ、その女体賛美の装飾過剰に何故か律義者の愛の形のようなことを思ったものだった。一口に偏執は膨大な職人的刻苦に彩られている。本好き文学好きが相対する席であった為、話は勢い版権や出版メディアのこととなったが、氏はかかる分野の請負い仕事を、どこかしらタトゥ(刺青)職人めいた、ヤクザな稼業のように感じておられるようだった。確かにエログロ通俗はサブカルチャーに過ぎようか。

 だが一愛書家である私には、氏の仕事はアルフレート・クビーンやファビウス・フォン・グーゲル、果てはビアズレーに至る書物を廻る画家と間断しないのである。
否、挿絵やポスター描きが画家として特殊なら、ロートレックは居るまい。まして彼等の背後には通俗の極みとも言える浮世絵の影響が控えているのだから、何をもってファインアートとなすべきか。今や漫画の原稿を通り越し、アニメのセル画に高値がつくご時世である。


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 徒事(あだしごと)はさておきつ、港町ハンブルグの無頼画家ホルスト・ヤンセンに就いて。

 何ゆえ無頼漢なのかと言うと、不良と酒乱が一生治らなかったからだ。投獄されるわナイフ振り回すわでは仕方ない。
そんなヤンセンでも、ハンブルグ造形美術大学のパウル・ヴンダーリッヒに師事し、真面目に版画の職人技を極める。ヴンダーリッヒが不良とは絶えて聞かない。そのまた弟子のヨルク・シュマイサーが謹厳実直なる紳士であるので、無頼の気風がハンブルグ造形美術大学にあったとは言い難い。ことはヤンセンのみに関わる。

 そのヤンセンが風来の気質に共鳴してか葛飾北斎にいたく傾倒し、『北斎との散歩』で自らを画狂人に準えたのは宣(むべ)なるかな。正に絵画の基礎の基礎、日に何百枚もデッサンするという素描家の鑑とも言うべきヤンセンの仕事は、自画像や家族の肖像は言うに及ばず、ポルノグラフィの写し(実際、谷崎潤一郎めいたポルノ小説『リッツェ』まで著している)、机上の取るに足らぬ塵とまごうものまで枚挙に暇ない。表層的に目に映じるものの全てを紙に写しとっているかの如きである。
 
が、それはもちろん写生であり、ヤンセン一流のフモール(諧謔)と犬儒趣味によって、手技も見事に事物の皮革を剥ぎ取り、裏返されているかに見える。

それらヤンセンの「完璧なる素描」の一枚一枚が、さながらミケランジェロが『最後の審判』に描く、革剥ぎの刑に処された聖バルトロマイに擬した自画像に通じる、と喝破したのが先の『文明の革剥ぎ職人』なる譬えであろう。

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 ヤンセンが生涯に残した個人画集の類は
Verlag.St.Gerturde社を筆頭に130有余冊。挿絵は無数。版画家でもあるが、矢張り本の体裁にこだわった点で出版の人である。古来西洋では書物は紙ではなくベラム(羊皮紙)であった。手彩色細密画をそこに施していた油絵の始祖ファン・アイク兄弟は、元々挿絵画家。そこに印刷機発明以後のショーンガウアーやデューラーといった版画家を加えれば、何だ始めは皆挿絵画家だったのか、となる。

 世界は一冊の書物である(マラルメ)の言を俟(ま)たずとも本のページは文明の皮だろう。蛇足だが、天文学者フラマリオンの『天界』初版は、彼の恋人某伯爵令嬢の人間皮で装幀されている。凄まじい愛もあったものだ。

「僕は自分の愛するものしか描けない。」というヤンセンは愛ゆえに世界の皮を剥ぎ鞣し続けたということか。「ナイフはその愛の武器だ」と言ったら、私も不良の仲間入りである。


                   ヤンセン
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