「ジャメ・ヴュ」 田中章滋
あるものも否定し、ないものを説明する、諸君はそんな幽霊話じみた考えに耽ったことがなくはないか。
幼年期の記憶もそうであり、私が揺り籠の中にいた時、一羽の鳶が舞い降りて来て、尻尾で私の唇を、何度も何度も打擲した、という他者の感覚の記憶、その感覚のことを私は最早誰のものか訝る。それが私の唇に、滑りを帯びた痒みの記憶として残るが故。「ありもしないものがある」と取り止めもなく思惟しながら、見知らぬ庭に闖入する。
それは鳶色のセーターの男のパレ・ロワイヤルのベンチでの逸話。ジャン・ジャック・ルソーが水子や捨子を沢山残したとか残さなかったとかに取って代わる。その結果、
ありもしない
が我が子を喰うサトゥルヌスとなり、そして
がある
と、一層悩ましく
そのアリバイの不確かさに繋ぎ止められてしまう。そして、誰のものともしれぬ、怪しい記憶を遡る。背理法によって、もしそこに居たと仮定するとき、その仮定そのものが間違っているなら、居なかったことになる。誰がいなかったか、否、何があったのか。鳶か揺り籠か赤児か唇か、ただ幽かに羽音のみ回想される。「もし」という響きのなかに、謎の全てが含まれているとしたら、吸血鬼のように、私を訪う権利をこの仮定法そのものに与えてしまうことになるだろう。なぜなら「もし」は無限に増殖し止まぬからである。閾を跨ぐことを許してはならない。それが鏡に映らぬ者が、無限に増殖する手立てであるならば。「もし」は有ると無いを相互に浸食しながら無いかのように振る舞うが、それは不毛の土地に棕櫚や果樹を植えた仮そめの箱庭であり、孰れにも属さぬかに見えて、空を切り取ることで全てに亀裂を入れてしまう。それが太陽の占有を夢見ているからだといっても、強ち間違いではない。「もし」は不死を目指してきた。切り取られた空の他所は常に闇。然らずんば「もし」だけが闇。となればそこが幽冥境でない筈がない。そしてばらばらになったものを、再結合するその切り取られた空であるラーン(÷)は、句切り符合コロン(:)に対して常に代数的閉包の突貫となる。それはカズィクル・ベイ(串刺し公)が、オスマン帝の後宮に人質となった仕返しに似る。上唇の弓と下唇の弦とが擦れ合う前に牙が突き出るように、「あり」と「ない」の狭間の暁の庭は彼方此方に失われる。それがラーン(÷)。「ありもしないがある」そう反芻して私は、三日月の庭を思う。そこに金星が輝かねば、このアトリビュートは聖母か、さもなくばイシスに捧げられてしまうだろう。が、この撲滅の庭は、後宮にして鏖殺の間、人取り遊びの幻惑の薔薇の籬。鳶色のセーターを着た男は、そこで育ったのであろう。白い繦に包まれて、揺り籠の中に、赤児として。それ故、その唇は数多数多の乳房に縋り、時に乳歯を突き立てたであろう。それが原初の血の記憶だ。長じるに従い、牙を黄色く濁らせた男は、貧民を救済せよと訴えながら、嬰児を溝に捨てるだろう。それが龍の裔であるが故。私が先程から侵入しているこの中庭も周囲に掘割が取り巻いた、鉤括弧型の建物のなのだが、風も戦がず、水は微動だにせず、ただ腐敗に任せている。音のするものはただ羽音。そしてその名残り。遠くで複葉機が飛ぶような、神経が攣る幽かな幽かな響き。「あるものも否定し、ないものを説明すれば、ありもしない、がある、もし、ないはずのものを、ありえぬ仕方で、なくすなら理に適っていよう」。しかし、何を喪失したというのだ。私は当初、恋い焦がれていた筈だ。ないものに向って。見たこともないものの、ルプレザンタシオン(再現=上演)、それは無残にも割れてしまった姿見の、決して一つに結び得ぬ写像。それが虹色に輝いたとて、光の背中が見えた訳ではない。
否、見えたとしよう。そいつが着ているのは鳶色のセーターではない。縞模様の囚人服、蜂鳥の羽根、ストロボで見るならば、それは透明な複葉で、羽根越しに毛穴が広がっているのすら垣間見える。ふと気付くとそいつはみるみるるうちに胴体を赤く孕ませ、痙攣している。打ち叩くと、それはラーン(÷)の形でよろよろと離陸する。
忌々しい薮蚊め! 何故お前が文の虫なのか? 「ボウフラのうちに駆除すべきであった」、と庭の主人が言うのを、私は痒みが極に達した口唇を歯で扱きながら聞き入るばかり。
鉤括弧は閉じられねばならない。ここに今一つ解放された箱がある。愚人エピメテウスに神ゼウスより与えられし妻パンドラ、その美しき泥人形が開けた容器に残されたクレボヤンス(予見)。それを予定調和の上蓋で。
あるものも否定し、ないものを説明する、諸君はそんな幽霊話じみた考えに耽ったことがなくはないか。
幼年期の記憶もそうであり、私が揺り籠の中にいた時、一羽の鳶が舞い降りて来て、尻尾で私の唇を、何度も何度も打擲した、という他者の感覚の記憶、その感覚のことを私は最早誰のものか訝る。それが私の唇に、滑りを帯びた痒みの記憶として残るが故。「ありもしないものがある」と取り止めもなく思惟しながら、見知らぬ庭に闖入する。
それは鳶色のセーターの男のパレ・ロワイヤルのベンチでの逸話。ジャン・ジャック・ルソーが水子や捨子を沢山残したとか残さなかったとかに取って代わる。その結果、
ありもしない
が我が子を喰うサトゥルヌスとなり、そして
がある
と、一層悩ましく
そのアリバイの不確かさに繋ぎ止められてしまう。そして、誰のものともしれぬ、怪しい記憶を遡る。背理法によって、もしそこに居たと仮定するとき、その仮定そのものが間違っているなら、居なかったことになる。誰がいなかったか、否、何があったのか。鳶か揺り籠か赤児か唇か、ただ幽かに羽音のみ回想される。「もし」という響きのなかに、謎の全てが含まれているとしたら、吸血鬼のように、私を訪う権利をこの仮定法そのものに与えてしまうことになるだろう。なぜなら「もし」は無限に増殖し止まぬからである。閾を跨ぐことを許してはならない。それが鏡に映らぬ者が、無限に増殖する手立てであるならば。「もし」は有ると無いを相互に浸食しながら無いかのように振る舞うが、それは不毛の土地に棕櫚や果樹を植えた仮そめの箱庭であり、孰れにも属さぬかに見えて、空を切り取ることで全てに亀裂を入れてしまう。それが太陽の占有を夢見ているからだといっても、強ち間違いではない。「もし」は不死を目指してきた。切り取られた空の他所は常に闇。然らずんば「もし」だけが闇。となればそこが幽冥境でない筈がない。そしてばらばらになったものを、再結合するその切り取られた空であるラーン(÷)は、句切り符合コロン(:)に対して常に代数的閉包の突貫となる。それはカズィクル・ベイ(串刺し公)が、オスマン帝の後宮に人質となった仕返しに似る。上唇の弓と下唇の弦とが擦れ合う前に牙が突き出るように、「あり」と「ない」の狭間の暁の庭は彼方此方に失われる。それがラーン(÷)。「ありもしないがある」そう反芻して私は、三日月の庭を思う。そこに金星が輝かねば、このアトリビュートは聖母か、さもなくばイシスに捧げられてしまうだろう。が、この撲滅の庭は、後宮にして鏖殺の間、人取り遊びの幻惑の薔薇の籬。鳶色のセーターを着た男は、そこで育ったのであろう。白い繦に包まれて、揺り籠の中に、赤児として。それ故、その唇は数多数多の乳房に縋り、時に乳歯を突き立てたであろう。それが原初の血の記憶だ。長じるに従い、牙を黄色く濁らせた男は、貧民を救済せよと訴えながら、嬰児を溝に捨てるだろう。それが龍の裔であるが故。私が先程から侵入しているこの中庭も周囲に掘割が取り巻いた、鉤括弧型の建物のなのだが、風も戦がず、水は微動だにせず、ただ腐敗に任せている。音のするものはただ羽音。そしてその名残り。遠くで複葉機が飛ぶような、神経が攣る幽かな幽かな響き。「あるものも否定し、ないものを説明すれば、ありもしない、がある、もし、ないはずのものを、ありえぬ仕方で、なくすなら理に適っていよう」。しかし、何を喪失したというのだ。私は当初、恋い焦がれていた筈だ。ないものに向って。見たこともないものの、ルプレザンタシオン(再現=上演)、それは無残にも割れてしまった姿見の、決して一つに結び得ぬ写像。それが虹色に輝いたとて、光の背中が見えた訳ではない。
否、見えたとしよう。そいつが着ているのは鳶色のセーターではない。縞模様の囚人服、蜂鳥の羽根、ストロボで見るならば、それは透明な複葉で、羽根越しに毛穴が広がっているのすら垣間見える。ふと気付くとそいつはみるみるるうちに胴体を赤く孕ませ、痙攣している。打ち叩くと、それはラーン(÷)の形でよろよろと離陸する。
忌々しい薮蚊め! 何故お前が文の虫なのか? 「ボウフラのうちに駆除すべきであった」、と庭の主人が言うのを、私は痒みが極に達した口唇を歯で扱きながら聞き入るばかり。
鉤括弧は閉じられねばならない。ここに今一つ解放された箱がある。愚人エピメテウスに神ゼウスより与えられし妻パンドラ、その美しき泥人形が開けた容器に残されたクレボヤンス(予見)。それを予定調和の上蓋で。
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