【幻想レアリスムシューレ】 / 田中章滋

「内外幻想レアリスム」、この謳い文句は、1970年代に美術雑誌(「みずゑ」他)などに青木画廊が掲載した広告文の一節である。この幻想レアリスムなる呼び名は、まさに青木画廊の真骨頂をなしていた。一見反語ともとれるその形容は、今では魔術的レアリスムと総称されるが、目眩く異才を紹介し続けた
この画廊の存在こそが、正に魔術的ですらあった。そしてここは同時に見えない学校でもあったのである。何やら、ハリー・ポッターめくが、青木画廊は瀧口修造や澁澤龍彦等文学エコールとの交流で名高いばかりでなく、アーティスト達のエコールでもあったのである。新人アーティストの登龍門青木画廊は、一方 で『エコール・ド・シモン』(人形学校)や『ヴイーナマルシューレ』(絵画学校)の成立にも深く関わった。

 今期、絵画学校に就いてそうした経緯を、日本におけるウイーン幻想派の影響の一端として少しく纏めてみたい。


「幻想レアリスム」はウイーン幻想派に由来している。青木画廊がエルンスト・フックスをパリの画廊で発見し日本の先駆けて紹介した功績は、既に36年(青木画廊創立時から起算)を閲し歴史化してい
よう。ウイーン幻想派は今日では、中学の美術の教科書にすら載っている。
 さて、1970年代の美術界はコンセプチャルアートが席巻し、日本では具象絵画は流行遅れと見なされていた。そこへのウイーン幻想派の華々しい登場は衝撃的事件だった。特にルドルフ・ハウズナー、エルンスト・フックスの細密画は、西洋絵画技法の懐の深さを垣間見せたのである。一見ルネサンス絵画に見えるその絵肌は、日本の印象派に偏した油彩技法からはどう描いたものか想像もつかない。どうすればこんなに細密に描けるのだろう?ここから当時の若い絵描きはいうに及ばず、名だたる洋画家に至るまで、かかる技法への関心が、一挙に高まったのだった。それが<テンペラ油彩混合技法>だったのである。

 以下は魔術の種明かし。<テンペラ油彩混合技法>の伝播を記していくが、敢えてウイーン幻想派の膝下に与するmischtechnik(ミッシュテクニック=混合技法)のみに限定する。
ウイーン幻想派による<ミッシュテクニック>、即ちテンペラ白色浮き出し、及び油彩による彩色グレーズというコンビネーション技法は、そもそもアーノルド・ベックリーン、オットー・ディックス、マックス・デルナー等によって研究、開発された技法だった。それはフランドル古画の技法の復興を目指すものだった。内側から宝石のように輝き出す絵肌への憧れからである。今日では、フランドル技法は全く別の処方であることが明らかにされ、デルナー式ミッシュテクニックは亜フランドル技法と目されるが、ファン・アイク兄弟のような絵肌を合理的に可能とし、今日ではそれは日本にのみ残存する技法にすらなってい
た、と言っても過言ではない。

 さて、ウイーン幻想派の沿革を記そう。ウイーン美術大学のアルベルト・パリス・ギュータースロー(エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカの朋友)は、教授として若きフックス、ウォルフガング・フッター、エーリッヒ・ブラウアー、アントン・レームデンなどに盛んに古典に学べと叱咤し、このデルナー式技法を伝授した___実際には助手格のハウズナーが指導したと思しい。ここにウイーンアートクラブを経て、超現実主義の影響も受けつつつ、ウイーン幻想派が成立する。そして、この技法の種撒く人として、ハウズナー及びフックスが活躍する。ハウズナーは後にウイーン美術大学やハンブルグ美術大学で、そしてフックスは私的講座であるゾンマー
セミナー(夏期講座)でこの技法を講じていく。

 殊にフックスは1958年以来、恋人でもある画商の後援でフックス画廊を営み、周辺の若い画家達に多くの機会を与えた。その門下にはクルト・レグシェク、ペーター・クリーチ、クリストフ・ドーニン、ペーター・プロクシ、ミヒャエル・フックス(恋人との間の子息)など枚挙に暇なく(広義にはフンデルト・ヴァッサー、ミハエル・グーデンホ フ=カレルギー、ヘルマン・セリエントもウイーン派と呼ばれている)。そうした流派の一技法が、日本からの留学生によって齎されたのである。

 1974~79年頃、春口光義、佐藤一郎、高橋常政はウイーン美術大学でハウズナーに、川口起美雄、マリレ・イヌボウ・小野寺、鈴木和道、牛尾篤などはウイーン応用美術大学でフッターに、坂下広吉はレームデンに師事した。フックスにも学んだ高橋(常)、ミヒャエル・フックス等と交誼を結んだ川口は、直接、間接的にフックスの影響下にあったも言えよう。またイヌボウ・マリレ・小野寺はゾンマーセミナーでフックスの謦咳に触れている。同時期のゾンマーセミナー参加者にアブドゥル・マティ・クラーワイン、HR・ギーガー、ロバート・ヴェノーサなどがいる。(付記:後年ハウズナーの助手を務めたルイジ・ラスペランザが、アカデミーの後任となったエーリッヒ・ブラウアーの助手をも務め、アカデミーの初学者にミッシュテクニックを伝えていく)。

 1980年に佐藤一郎は『絵画技術体系』(M・デルナー著美術出版社)を訳している。高橋(常)はハンブルグ美術大学でハウズナーの助手を務め、デルナー技法に精通していた為、その実践テクニックを技法書ムック『女を描く』で示し、これらが日本における体系的な技法紹介の契機ともなった。

 一方、ミッシュテクニックの直接的な指導は1981年頃から、川口による個人的営為が先行する。そらが早見芸術学園(鎌倉)などでのテンペラ画講座であった〔小沢純などが受講)。 その後、青木画廊と縁深いペヨトル工房が、高橋(常)、川口等を抱して公開講座を主催し(相馬武夫などが受講)、やがて川口のみによる私的夏期講座が
各地で継続されていく。そうしたものに、1984年の青木画廊協力による大山弘明主催の水戸セミナーが挙げられる。これには渡辺高士や田中章滋が参加し
ている。これらの講座にはプロの画家達が教えを乞い、その技法的関心に並々ならぬものがあった証左でもあった。

 そうした下地を受け、1986年にマリレ・イヌボウ・小野寺、坂下広吉、鈴木和道等により「ヴィーナーマルシューレ」(原宿)が開校、フックスが祝いのメッセージを寄せている。ここにも青木画廊の強力な推輓があり、一般者に混じって多くの画家が学ぶために籍を置いた(これに先んじて、イヌボウ・小野寺に最も初期に技法を学んだ者に蛇雄がいる)。青木画廊関係の受講者を列挙するなら、イヌボウ・小野寺クラスに浅野信二、健石修志、高橋勉、高松玲子、田中章滋、月野阿弥子、(同じ頃、市川伸彦はイヌボウ小野寺の大阪講座を受講)、鈴木和道クラスに小野田維、坂下広吉クラスに浅野信二などが挙げられ る。

 1987年に文化庁の在外派遣研修員としてフィレンツェにあった川口が、帰国後合流(水野恵理、高橋光が受講)1989年に閉じる及んで、川口のみによる「マルシューレシュテルン」(渋谷)として継続、そして閉校(石田富弥、小石貞夫などが受講)。
 その後川口個人の活動によって、その教授が女子美術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学他各所で展開され、今日に至っている。
ウイーン幻想派からミッシュテクニックという宝物を授かった子等は、フックスの流れから数えて早第五世代ともなっている。

付記:この他、ウイーンに短期、長期に学んだ画家は多士済々であるが、当該テクストの性質上割愛した。
                                 田中章滋 識
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