『天の女』               田中 章滋

 西洋美術館に私の懸恋の胸像が二つある。一つは伝ロヒール・ファン・デル・ウエイデン作、とされる油彩 画の青年像。もう一つは、大理石彫刻のマリ・バシュキルツェフ像*(注参照)である。どちらの胸像も、見る度に何やら胸騒ぎのようなものを感じるのは、唯に私だけのことであろうか?

「青年像」については、孰れまた語ろう。今回は乙女の肖像について。

 マリ・バシュキルツェフ(以下マリ)の胸像、その楚々とした俤(おもかげ)は、可憐という形容がぴったりで、今で言うアイドルに勝るとも劣らぬ手弱女(たおやめ)振りである。因みに彼女の生い立ちを紹介してみよう。1860年、ロシアの富裕階級でコスモポリタンでもある両親の許に生まれ、フランス国内のあらゆる都市に移り住み、文学、絵画、音楽など幅広くその早熟な才能を発揮、『日記』の公刊によって、一躍当時の名だたる文学者たちの正しくアイドルとなった。その証左としてモーパッサンとの「往復書簡」がある。だが惜しむらくは僅か24歳、青春の最中、切花の如くにその酣(たけなわ)の命を散らしたのである。

 マリの胸像はそんな自らの薄命を知ってか知らずか、どこか儚なげな印象に映る。そうしたことが私の胸騒ぎの原因かも知れない。彼女の胸像の薄い大理石の唇は、今にも私に話しかけてきそうに思えて仕方ない。以下はモーパッサンとマリが、 密かに交わした書簡をめぐる、私の断想である。

                *  *  *


 親愛なるマリ

 貴女が<天上界に昇る夢>、大変、感心いたしました。貴女の『日記』の中の<この世の終わりの夢>よりも、こちらの方が私には頗る重要に思われるのです。私が見る夢の多くは、殆どが悪夢だといって差し支えありません。それは鋼のような体をした天使ガブリエルに、息も絶え絶えになるくらい、閂をかけて締め上げられているような、苦しいものばかりです。
 夢のみか、最近では昼間から、得体の知れないものに取り憑かれているような気がしてなりません。それにこの間、ウィリアム・ウィルソンのように、私が前々から恐れていた自分自身の分身と、ついに出会してしまったのです。

 私には透視能力という特殊な力があります。その体験を「あいつ」というコントに認めました。
 貴女は心霊的な何かに始終監視される恐怖を実感したことがおありですか? 仮にそれが超越的存在であったにしても、邪悪な意志を持つ者に違いない。そんなお話にしました。
  
 ところで、日本の神話に貴女の夢と類似した『天の羽衣』という話があります。試しにそれを綴ってみましょう。

 大昔、のどかな春のある日、海岸へ釣りにやってきた若い漁師が、木の枝に掛かっている美しい衣をみつける。目にも彩かで何とも香しい。それは絹よりも軽やかで柔らかく、とてもこの世のものとは思えない。若者はこれをもち帰ろうと自分の魚籠(びく)に仕舞い込む。  
 呑気に水浴をしていた天女が戻ってくると、枝に掛けておいた衣がない。そばに漁師がいたので、「私の羽衣をお持ちなら返して下さい」というと、若者は「これは私が拾ったものだから返すわけには参らぬ 」と受けつけない。

 困った天女は「それは天人の羽衣というもので、たやすく人間に譲れないのです」というが、若者は「あなたがこの羽衣の持ち主で天女なら、珍しいものゆえ増々返すわけにはいかぬ 」と横領の構え。
 羽衣がなくては空を飛ぶことも、天上界に帰ることも侭成らない。そこで若者は、地上に住めと強要する。天女は羽衣を脱ぎっぱなしにした己の迂闊を悔いるが、裸のままでは若者に従わざるを得ない。

 無理強いされて、地上での生活を余儀なくされた天女は、虚しく空を見上げ天界へのホームシックでみるみる衰弱し その美しかった姿は見るも無残に変わり果ててしまう。漁師は俄に罪の意識を覚え、天女とこんな問答を交わすのである。

 「その痛ましい姿を見ては、こちらも耐えられません。羽衣をお返ししよう。でも暫し待って下さい。天上には天人の舞という素晴らしいダンスがあるとか。今ここでそれを見せてくれたら返してあげましょう」、「あな、嬉しや。では月宮の舞をここでご披露します。でも羽衣がなくては舞うことができません。まずお返しください」、「いや、この羽衣を返すとあなたは舞わずに天上に逃げてしまうに違いない」、「いいえ、そんな邪まな考えは人間界だけのものです。天上の世界に嘘偽りなどというものはないのです」。

 これを聞くと若い漁師は急に恥ずかしくなり、羽衣を返す。天女は羽衣を身につけて月宮天女の舞を演じながら、宙天高く高く舞い上がり、そのまま別れの言葉もなく去っていった。

 この話には異伝があり、若者が天女との間に子供をもうけたともいいます。しかし私にはこのダンス自体が何か性的な行為を暗示しており、昇天そのものが女性特有な法悦(エクスタシー)を意味しているのではないか、と怪しんでしまうのです。

  貴女の夢にも、そうした無意識の性的象徴が備わっていますまいか?
 
  弦の切れた竪琴とは、絶頂にあって喜悦の声を洩らすまいとする貴女の羞恥心の現れでは? そして男を誘惑するような、薄衣のようなものを羽織ってはいませんでしたか? その時どんなお気持ちでしたか?

 大変、不躾なことを縷々聞きました。文学と私への格別な厚意に免じてどうかお許しください。

   私の可愛い小鳩ちゃんへ

               アンリ=ルネ=アルベール=ギィ・ド・モーパッサン

            モーパッサン


                *  *  *

 この往信は内容に病的な禁忌を含み、且つ恋文のような体裁であるため一群の私信と共に『往復書簡』には収められなかった。ここでモーパッサンが話題にしているのは、先に公刊されたマリの1875年12月27日月曜の日記への照会である。手紙の意図を汲み取るために、以下に翻訳しておこう。
                         


                *  *  *

 妙な夢を見た。私は地上高くを飛んでいた。手に竪琴を持ち、その弦はすべて切れていて、どの音も鳴らすことが出来なかった。私は常に上昇しており、広大な地平線には青や黄色、赤、金や、色とりどりの変わった千切れ雲が見えていた。それから全てが灰色になったがまた再び輝いた。私はどんどん上昇し、恐ろしい程の高度に達していた。しかし、私は恐くはなかった。雲は凍っていて鉛のように光っていた。全てが茫然と見えていた。私は弦の切れた竪琴を持ち続け、私の足下はるか遠くには褐色の珠、地球があった。

                       *  *  *


親愛なるギィ

 私の見ました天上界の夢についてお尋ねですが、少女の頃に見たものですし、今一度それがマリア様の被昇天に付き従う天使になった夢と思って頂いたほうがよろしいかと存じます。先生は鋭くどんな気持ちであったかと御指摘ですが、それは決して淫夢のようなものではなかったと、神賭けて誓いたいのです。
 乙女の口からこのようなことを申し上げるのは羞恥の限りですが、私はいまだ曾て法悦(エクスタシー)などという感覚は絶えて存じませんの。ただ、夢のさなかにも自分が男でも女でもないものの方へと引き寄せられていくような感覚、何か別の生き物にでもなったような心地がしたのは確かです。

 ところで先日ある女占い師に夢占いをしてもらいましたら、私が繰り返し見ているのはスウェーデンボルグと同じ幽体離脱ではないかと言われました。私の魂が夜毎体を抜け出して、いろんな場所を彷徨っていると言うのです。
 そしてつい先だっても先生の書斎にいる夢を見ました。不思議なことに、そこには先生御自身が二人いらして、さかんに罵りあって居られました。仲裁しようと思いましたものの、どちらの先生に声を掛けていいやら途方に暮れてしまう夢でした。

                              貴方の思われ人マリ


                *  *  *

 超男性を絵に書いたような放蕩者で女嫌いのモーパッサンと、恐らく生涯処女のままであったろうマリとの間に、かかる精神の同衾を思い描くのは想像が過ぎるというものか。マリの死と踵を接するかのように、その後モーパッサン は幻覚に悩まされるようになり、ついには自殺を試みて発狂し、齢43の若さで死んでいる。
  ノイローゼの最中に書かれた短編小説の多くが、分身とその恐怖の実在を描いたものなれば尚更、そこにマリの霊が介在していないとは誰にも証明できまい。 果してマリは取り憑いていたのだろうか? それともモーパッサンを地上の煉獄から救い出さんとしていたのか? 夢の国の話とて、私はそこに永遠至上の愛をこそ認めたいのである。


            Marie Bashkirtseff
          *注:マリ・バシュキュルツェフ像/シャルル・ルネ・ド・ポ-ル・ド・サン=マルソー作(国立西洋美術館蔵)
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